2022年8月19日

住人

 この世界で、1人しかいない父が、2022年8月19日に、この世を去った。

その日、所用があり、朝帰宅しそのまま午前中にまた別の用事があったこともあり、いつも通り、パタパタと身支度をしている横目で、様子を見てみると、ここ最近の猛暑の影響もあって体力が削られていたこともあり、とても大変そうだった。母の話によれば、7時過ぎには会話もこなし、いつもと同じ時間が流れていたという。自分も、そのつもりで、家を出た。出る時に、いつものように声をかけた。ちゃんとした返事がなくて、少し心配になったけれど、寝ている時にも同じような反応を見せるので、頑張ってくるね、と声をかけて、家をでた。その日の結果を嬉しく、帰ってきて話すつもりだった。

 父は、若い頃から頭脳明晰(ガッチガチの理系)でスポーツもよくでき、陸上やバレーでも関東大会に普通に出てしまうような人。自分も中高と陸上をやっていたが、とてもではないが勝てる記録ではない。とんでもない速さだった。寡黙で、でも負けん気が強すぎて、社会的におかしいことがあれば積極的に乗り込んでいったようなたちで、時代背景をそのまま人生に反映したような、唐変木な性格の持ち主でもあった。自分が小学生の頃、痩せ体質かた太ってしまった時には、俺の若い頃はこんなではなかった、太るのはやめてくれ、なんて言われたこともあって、反抗期は主にその点に関してのみ、経験した。

 中学生になってから、陸上にのめり込むようになったり、成績を見せたりすると(決してめちゃ良かった訳ではなく人並みー少し上くらいの凡庸な感じであったが)嬉しく思ってくれたり、壊滅的な数学を時には教えてくれたりすることもあった。父の趣味はゴルフで、ちょうどこの頃、しっかりとはまっていて、その運動神経の良さから、よく1位2位で帰ってくることもしばしばであった。仕事が休みの日曜には、父の実家に行ったり、大会に送迎してくれたり、いわゆる父親、ということについてはしっかりとしてくれていたけれど、わいわいやる方ではなくて、私もそれは心地よく感じていたから、無駄なことを話さなかったり、わにわにしない(甲州弁を使ってしまった)ところも、父譲り、祖父譲りではあると思う。現代人だから、たまにそうはいってもハメ外してしまうのだけれど。笑

 高校も、中堅進学校に進んで、父とは全く違う道を選ぼうとしていたのだけれど、高校時代も陸上だけでなく吹奏楽も生徒会もやりつつ、上は目指したいと言って失敗して浪人を選んだ時も、

その先にある自分の人生を信じて頑張れ、お前のやりたいように生きろ

という言葉をしきりに言って、とにかく私自身の判断に任せてくれた。もちろん、ベラぼうな私立に関してはいい顔をされなかったし、年代特有のレッテルなんかもあって、これはだめ!というところはあったけれど、それでも私が望むなら、それさえも許してくれるような勢いで、全ての経験を全て人生の糧にして進め、というスタンスだったから、私としてはこれ以上はない、最高の最上の教育方針で育てられてきた。もとより、祖父と父の間には少しわだかまりのようなものもあって、実家を出たのもあって、自分が本意ではないことに強制的に従事することや、人のためにならないことが基本、窮屈に感じる人でもあって、頭が硬い面がありながらも、とても融通のきく人であったと思う。

 大学は長野県へ。信州で学んだ期間も少し長くて、若干心配をかけてしまったのだけれど、その時も、そのまま院で突き進むのもありなのではないか、とか、いろいろ背中を押すことを言ってくれたし、休みの際には、よく松本に来てもらった。ついでだしいいよ、ということで、父と母の小旅行的な意味合いも兼ねて、よく来てくれていたのは、母としてもいい思い出になているようで、結果的には迷惑ばかりかけていなくて、良かったな、とは思う。もとより、母の兄の実家が松本にあることで、縁がある土地で、学べたこともとても大きかった。

 卒業して仕事を始めてからも、なかなか仕事に行けない時期もあったりして、やはり心配を少しかけた時も、常に父は味方でいてくれた。私の性格や考え方も理解した上で、母との会話の中で、応援していてくれた。はずかしがりやだし、カッコつけるとこもあるから、直接はなかなか言ってくれないのだけれど、それもまたわかっているから、こちらとしてもとてもやりやすかったし、わかっているよ、ありがとう、という気持ちで、辛くなった時には、のびのび育ててくれた感謝がいつも、心に思い浮かんだ。

 2019年の台風の日、道路も寸断されるような日に、2人で虫のしらせを感じながら何も出来ず不甲斐ない思いをした、祖父の死。命、を改めて目の前にしてから、父の行動が少し変わった。祖父のために、そんなことが垣間見れて、なんだか少しほっこりした面もあった。みんなで、祖父の死を乗り越えて少ししたら、今度は父が、肺の状況がいまいちである、と診断されて、経過を見ながら一年後には、アスベスト由来の悪性胸膜中皮腫だと診断されて、QOLが悪くなることを承知で、片肺を全摘した。あれよと物事がすすんで、何も追い付かなかったけれど、その決断をできた父のガッツは凄かったと思う。タバコガンガンに吸っていて、お酒はやらないけれど偏食もしていたのに、めちゃくちゃ綺麗な肺を見せられたとき、そして術後の回復の早さには、彼の生命力の強さを感じた。T家の男性たちは、なかなか強くて生命力のある人ばかりだから、ここぞという粘りは本当に強いな、と心から感じた。それでも、この病の予後の悪さは本当に心配していて、数値は単なる平均値でしかないとしても、5年生存率が極めて0に近い難病にかかってしまったことを、本人が一番悔やんでいた。なんで俺なんだろう、ともよく言っていたけれど、本当にそれは思う。そして、自分が選んだ仕事を本気でやっていたのに、それが由来のーしかも当時の国や企業のヤバいごり推し資材でー病になってしまったことは、本当に居た堪れない。同業者も何人かそれで亡くしていて、父も、先を考えると憂鬱になっていたこともあるようだが、それでも、もう俺はやることはやったから、ある程度後悔はない、なんてことを言っていて、私にとっては今後たくさんまだ語らなければ行けない物事があるのにな、とか、遠い未来のことだと考えていて。

 2022年になって、夏に入ってから、免疫療法に変えてからグッと具合がよくなくなってきていて、でも抗がん剤治療もあまり芳しくなくて、苦渋の決断だったとは思うけれど、延命をのぞんで少しでも長く、という思いでした決断が、その肝心の免疫力をつけられず(リンパ浮腫や左肺への浸潤によるものだったかもしれないが)、おそらく心臓の不整脈や持病とも言っていいものか、というところだがそちらにも影響して、限界であったのかもしれないと考えるようにしている。

朝、見て、2時間もしない間に、寝ている状態のまま、息を引き取ってしまって、あれだけ生命力の強い人が、戻ってこないのだから、限界だったんだろう。浮腫も手足が凄くて、血流の悪さも感じて、よく起き上がってはいたけれど、きっと、相当辛かったのだと思う。車椅子で移動ですら、休憩しよう、というくらいなのだから。それでも、9月からはそろそろ訪問医療を考えようとしていたところに、急逝となってしまった。覚悟は、正直仕切れていなくて。祖父の時も、実務的には私が大きく事務や諸作業をおこなっていたから、救急隊の到着の後の、中皮腫やアスベストすら知らない(救急隊も知らなかった、なんで知らないの?)ゴミみたいな某公務機関の繰り返しのインタヴューにも冷静に返して、その後の手続きを行なってきて、今どんどんと日が経つにつれて、存在が大きくなってきていて。

 中皮腫で苦しむ人は、これからますます増えると思う。生活の中でも、なる人もごく稀にいて、腹膜や胸膜上皮などでもやはり全摘しても病相の排除はなかなか難しいところで、生存率からしたら、父はよく頑張った方だと思う。実質、2年ー3年くらいは生きているのだと思う。集団訴訟や、その他諸々、手続きできるものはしているけれど、それ以外にも、今苦しんでいる人や、その家族にたいしてもできることはあると思うし、国やその他機関にまだまだ、責任を追求することもできる法体制に、奇しくもなったばかりでの早速の適応となってしまったわけだけれど、生老病苦の四苦は、人間の与えられた定めでもあり、また父の最期は、3日ほど様々な不定愁訴もなくよく眠れていて、1日前も母がよくいろいろなことばをかけては、夫婦喧嘩のような漫才を繰り広げていたところや、病院で亡くなるのは絶対に嫌だということばをまさに地で体言したような人生でもあって、彼らしいな、と思うところは、今となれば多々ある。

  父が、残してくれたものを、たくさん大切にして、これからも生きていきます。遠い将来、そっちに行く時には、行けなかっゴルフに行こう。一緒に、ラウンドをまわって、そのあと、プレイについていっぱい語り合うんだ。将来の話については、あまり語ることを好まない2人だけれど、やりたい、達成したいことに貪欲になっていこうと思う。あなたが、もっと長くいると思っていたから後回しにしていたことが、たくさん目の前にきていて、正直キャパオーバーな面もあります。でも、そこは母や、あなたの妹さん、あなたのお母さんと共に、生きるを全うしていきます。世の中には、事実上もっと赤ん坊の頃から、家系の筆頭になっている人もいるわけで、十分に引き継ぎの時間があったと捉えることはできます。学んできたこともたくさんあるし、嫌いだけれど私も昭和生まれの方々の見ておぼえろはなれているので、見よう見真似で、かつより丁寧にするところはして、受け継げるところはより発展させていく所存です。

 見ての通り、私もさながら親族の若手は少し少なくて寂しいけれど、きっと私たちの星は必ず全てを乗り越えてよくなる、ということは知っているから、その点は安心して進んで行こうと思います。あなたのとっても真面目なところは、いらないほどにまで受け継いでしまってたまに他人との関係でやられてしまうこともあるけれど、それを凌駕する努力と生き方で、恥じないように生きていくね。

産まれるきっかけを作ってくれてありがとう。

母とであってくれてありがとう。

この家庭に生まれてくることができて、本当に幸せです。

不器用なのは知っているから、何かしらの形でまた近くで見守ってくれていると思うけれど、変わらず頑張ります。

追悼と、感謝の意味を込めて。

息子より。

t tatsu

山梨在住。あっちいったりこっちいったり、浮き沈みの激しい人生。音楽、本、映画やことばを好みます。多趣味多忙が代名詞。 …「あたりまえ」のことは、そうでもない...

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