ひと休み、10休み

住人

人生の最も大切な時間は、一休みだと思っている。

そうやって、また自分は自分を正当化するわけだけれども、

仕事をやっている時、練習している時、語っている時、何かを継続して行うときに、最も重要なことは、「休む」時間を作ることだと思っている。

3時間の朗読会、気は引き込まれるけれど、そのうち1秒でも必ず、集中が途切れる瞬間がくる。人の足を動かす音が気になる、光源を見て頭の中で理科の授業をし始める、

うまい言葉遣いを聞いて自分のボキャブラリーのなさに幻滅する、読み手の恋人になってみるなど・・・ずっと、そのことを考えていても必ず、頭の中には横槍さんが入ってくる(自分はそう)

全てが無駄なわけでもないし、それがまた人間のすごいところで、同時に色々なタスクを抱え込むことができる。

だけど、やっぱり私には、どれだけ継続している物事の中にも、一休みの時間が必要になってくる体質であるようで。何を約束されていても

何を保証されていても、自分の頭の中で処理するじかんが少しでもないと、不安になったり、まとめ上げてから出ないと、物事がうまく測れないということが起きてしまう。

そして、私は、やはり言葉の大切さに非常に繊細に反応してしまう性格である、ということもまた、非常に前進を遅くしてしまう原因の1つだと思っている。

好調に物事が進んでいる時の、「でも」「否定」「投げやり」この3つは本当に忌み嫌うもの

これに出会った瞬間に本当に、糸が切れたようにやる気を無苦してしまう。

批評・比較・意見がいらないわけではない。協調の意思が0なときに、やる気を失うのである。…自分の中では、おかしいことではないのだけれど

これを、諦めずに続けて成功した昭和時代の戦功のようなエピソードには本当にうんざりする。他人へのリスペクトもないところになぜこちらから引き下がって尊敬をしなければならないのか。

それは、一見他責に見えるけれど、そうではなくて、もともと相手への尊敬はマックスの状態で初見から合っている状況で、開口一番に否定から入る、そんな輩が作り出したものが

社会であるということに辟易としているだけであるわけです。

どれだけ高速道路で行き先に急いでいても、結局、一度休みを入れないと辿り着けないじぶんにすごく、腹立たしさを感じることもある。

でも、この社会に適応できないのであれば僕は適応障害なのだろう、診断されたことはないけれど

でも、それを疑うくらいには、僕は僕の道ですら、休み休み行かなければ辿り着けないような有様で、情けないように感じる。

そんな感じ方を、また救ってくれるのもまた、言葉で合って人の繋がりであって、そこに至るものは結局のところ、自分が紡いできた言葉や実績であることも、改めて強く

感じているけれど。でも、昔の自分のようなガッツは戻ってこないし、戻すつもりがないといってしまえばそうなのかもしれないし、そこにある人への信頼感のなさも影響している。

でも、人は信頼しないと信頼を得ることができない。その延々な迷い道導の中に堂々巡りしているような感覚の真夏の時雨に、僕はレスターを口ずさんで、道なき道を行く。

その道なき道は、頭の中では完成していて、非常に自分勝手なのだけれど、どれもこれも放置空いていると炎天下でソフトクリームのように、べちゃべちゃになってしまいます。

って思い思いの言葉を書いていると、また一休みしたくなってしまう。

1が1をよんで、結局10もやすんでしまうこともある。けれど、前向き前進人間だから、私はなんだかんだまた、進み続けるのだけれど。

10休み中に、色々な繋がりを感じることが多くある。大学教授、前職の仲間、小中学校のイジメていた奴ら、新しい職種の繋がり、過去の自分の言葉、音楽

高校生の頃とか大学生の頃は、自分から?あいてから?とかどっちでもいい論争をしていたけれど、私が必要としたときに必要な言葉を与えてくれる

必要なお休みを与えてくれる事象全ては、全てにおいてお互いに必要な物事であると、重要なメッセージを思い出させてくれるから、どっちでも良くなった。

もっぱら、私は企画側なのだけれど、ただ意味のない提案に終わりがちだった若い頃から、だんだんと若くない頃に突入するということも合って、1つ1つに大きな

意味を持たせたいお年頃にもなってきた。だから、どれもこれも必要で、どれもこれも絶対にじぶんに欠けてはならない事象であると強く信じている、そして不思議なことに

強く信じていると、そうなっていくものである。だから必ず、叶えたいことは強く願って信じて思い続けると体が勝手に動いてじつげんにどんどんとこじつけられていくものである。

ということも、10の休みの中に改めて見出した最高の観点であると思う。

天才でもなんでもないから、大手の商社で寝泊まりする間に、経営者に近付いている間にそんなことを悟っていく仏陀でもないので、こうやって泥臭く、他の人が

体験しないであろうスローすぴーどで物事を進めているわけだけれど、私は必ず全てにおいて負けるつもりも毛頭ない。

そんな、10の休み中にも、どんどんとやりたいことが湧いてくるから、結局、10の休みをしているひまも、ない

というところが、以前の私と、違うところ。

そろそろ、お父さんが逝って、1年経つね。

10号室  t tatsuより

みなさまの毎日が、いつも輝きますように

未来が希望で溢れますように

t tatsu

山梨在住。あっちいったりこっちいったり、浮き沈みの激しい人生。音楽、本、映画やことばを好みます。多趣味多忙が代名詞。 …「あたりまえ」のことは、そうでもない...

プロフィール

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