How to useの活かし方
「おどりば」にかれこれ、どれくらいいるのだろうか。
そろそろ、次のステップに進んでもいいのではないか。そうやって日々、思うのだけれど
世の中の人は、 良くもこう、よそよそしく、他人として自分を確立できるなあ、と最近はすごく感心している。
ニュースでみる大谷翔平は実在していて、その幼少期からの生き方を会社の研修でやったこともあれば、厳しい精神論なんて
いつも中学の頃から身に受けていたはずなんだけれど、それに慣れて、自分がものすごい苦しい想いをしたからこそ、その他の人々にはそのような
想いをしてほしくないと考えて、怒る感情や不平不満を言う感情を抑えてきた結果、本当のことすら言えない、言ったら何もかもが
壊れていくような、そんなことを思い込む性格になってしまった。
小さな一挙手一投足にも、感覚が鋭敏に鋭いから、何気ない1アクションで傷つくこともあれば、社交辞令に一喜一憂することだってしばしば。
でも、人は基本、何も思っていないところから、その言動や行動が出てくることはないから、その人の本性の一部分を垣間見ていることには
変わりなくて、それを見た瞬間に、幻滅したり、見直したりすることは多にしてある。
人のメッカというものにはコミュニケーションがあるわけで、それは非言語はもちろん大切だけれども、最も印象的なものは言語的なものであって
それを看過することは、どうしてもできなくて、マネージャーや部長級の人たちが、いわゆる「そんなこと」と言われるような1つの小さな
出来事でも、自分にとってはものすごく不愉快なことが本当に多くて、それは同期や同年代にも言えることだけれど、人のことばかり言っている
わけではなくて、そういう些細な物事こそが本来、憲法にも規定されているような生存権のもとを担っていると思うし、そこは大切にして生きていたいと思う。
だからこそ、そこの感覚が強すぎて、ものすごく生きづらいのが今、この瞬間である。
深層心理から、成功を願えば願うほど、困難な壁が出てきて、それを乗り越えた先に安寧が待っていると思えば、なぜか他人の怒りの矛先がこちらに向いて
思いやりの仕合ができるような環境ではない、なんてことが多すぎて、正直ものすごい重みのストレスがのしかかっている。
でも、それもひとえに、
How to use
が、うまくできていないから何だろうな、とhは薄々感じているわけで。
オンとOFFの切り替えはものすごく大切なのに、常にオンだからものすごく疲れるし
他人の言動や行動はシャットアウトすれば良い話なのに、そのやり方がうまくいかず、いらない部分まで自分の価値基準に勝手に
取り入れられていく。
とある、フリーランスの方とお話しをする機会を設けた時にも、
その働き方は自分でもできそうだ、と希望を持って行動しようといろいろなことに取り組んでいる最中に、
様々な出来事が重なって、両立ができなくなってしまったり、その環境における関与する人の予定に合わせることで
自分が壊れそうになってしまったり。
どれもこれも、今までうまくいっていた(ように見えていた)自分の取り扱い方が、なかなかうまくコントロールできなくなてしまっている
その表れでしかないと、最近は強く思う。
自己肯定感をどれだけ上げても、上を見てしまうし、下も見てしまうし
それで悪い意味で安心して手を抜いてしまうこともあれば、上を見てきりがないことに闘争心を燃やして
何事も頑張り過ぎようとしてまた他人の壁にぶつかる(ふりをする)こともあったりして、
まだまだ、自分の人生にはおどりばが憑き物である、ということが手に取るように、いまならわかる。
それでも、やはりオンの中に人間味を持ち出せるのが自分の良さだと思うし、
そこを潰したらそれこそ、結果的にAIのような人間ばかりだな、という現代にも
抵触しないでいられるような、そんな気がしてやまないのである。
自分自身の取り扱い方は、あくまで自分自身であって
SNSによる他人の監視や常事見られている(ことを想定してやる)ことが
目的になるくらいなら、おしゃれな家具や空間だけをトリミングしたキラキラした場所に
いたいとは思わない。
おどりばで、自分自身を見つめ直している今。
10号室 t tatsuでした。
この記事へのコメントはありません。