minami-ishido
このおどりばで書き続けている人がいるおかげで、僕はどこか救われているところがある。
何がどう救われているのかは言語化できない。そして、言語化したくない。
本当に大切なものを世に出すことに抵抗がある。
心の奥底の大切な想いはネットに書いたことがないし、かけがえのない人との思い出をそう簡単に他人に見せたくない。
言語化するのが嫌なのは、自分の気持ちを形にすることで、他人に簡単に理解されてしまうのが嫌だからかもしれない。それとも、ただ怖いだけなのかもしれない。自分の本当をしまっておくことで自分を守っている。
おどりばで書き続けている人がいるおかげで救われている、この気持ちは、きっと僕にとって本当に大切なものである。
数年前から、出掛けるときにはカメラを持ち歩く習慣ができた。
中学の友人にカメラ好きがいて、一緒に長野駅前の風景を撮影するうちに、目の前の風景の一瞬一瞬はもう二度と訪れない景色だと、強く感じるようになってしまった。
友人はカメラ好きが高じてフリーランスのフォトグラファーになった。会うたびに仕事が増えている様子で、充実しているようだ。
僕は高いレンズを何個も買うようなことはせず、最初に買った初心者向けの一眼カメラで、どれだけいいものが撮れるかを突き詰めている。
写真を撮るようになり、知らない人に話しかける機会が増えた。
僕は目の前の風景に必ず人物を入れるのだが、一人で出かけたときはそのモデルを現地で探さなければならない。
撮りたい風景を見つけたら、その場に自分のイメージどおりの人物が現れるのを待つ。
氷点下の中で一時間以上待ったこともある。
運良く現れたらその一瞬にシャッターを切るが、その人物と風景の組み合わせがえらく気に入ってしまった場合は、話しかけてモデルになってもらえないかと交渉し、何枚も撮影する。
これまで数十人に実践したが、後ろ姿限定ということもあってか、断られたことは一度もない。
その場その時に縁があった人との思い出の写真ができ上がる。
それが、ただ写真を撮る以上の楽しみとなっている。
写真を撮るようになり、写真を通じた友人もできた。
SNSで知り合い、一緒に撮影をするようになった友人の中に、とある10代の青年がいる。
その友人は出会った当時は通信制の高校に通っていて、全日制の高校は不登校になり辞めてしまったと話してくれた。
彼はこの夏、自分が撮った写真の個展を開いた。自分は何者なのか。自分がこれまで撮った写真を世に出し、表現することで、自分自身に問うていきたいという気持ちを込めた個展だった。
個展を訪れる観覧客一人ひとりと、彼は対話をしていた。
自分の気持を世に出すことに抵抗がある自分にとって、彼のその姿勢は強く、逞しかった。
その数ヶ月後、彼は写真や映像を学ぶための大学に行くことが決まった。
写真が彼を動かし、今度は彼が写真で何かを動かす未来がみえた。
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