まちの中の知らない他人

住人

 

とある冬の夕方。
ゴミ処理場の煙突からたなびく幻想のような煙を遠目に見ながら、季節に覆われた田畑が続く田舎道を歩いていた。
前方から女性が歩いてくる。
紺のダウンコートを着た40代くらいの女性。
芝犬の散歩をしている。
見渡す限りの景色の中に他に人はいない。
静かでひんやりとした空気が流れている。
すれ違いざまに、女性が「こんにちは」と話しかけてきた。
僕は、少し驚きながらも、ワンテンポ遅れて「こんにちは」と返した。
チラッと見たその顔にはしとやかな笑みが残っていた。
それ以上は何もなく、お互い歩いてきた道を、それぞれが反対方向にまた歩いていく。

まちの中で、知らない他人と言葉を交わしたのはいつぶりだろう。
そう思いながら、ほんのり温かさを身に感じていた。
  

日常において知らない他人と話すことなんて、店員さん相手を除いたらほとんどないだろう。
電車で座った知らない隣の人に「いやあ、いい天気ですねぇ」。
エレベーターの中で居合わせた人に「俺、今日誕生日なんスよ」。
そういうことをすると、「この人やばい」と警戒されてしまうのが世の常だ。
大学時代の夏休みに、実家近くの道で下校中の女子小学生に「こんにちは!」と挨拶されたことがある。
嬉しかったのでとびっきり爽やかな笑顔で挨拶を返したが、後日友人に話すと「それ、不審者と思しき人にはこちらから挨拶をしようって教育されてるらしいよ」と言われショックを受けた。

最近、アメリカで生まれ、10年ほど現地で暮らしていたという男性と知り合った。
日本とアメリカの違いを聞かれてまず出てくるのが、「バスやスーパーなど、日常の中で他人同士が話していること」だと言っていた。
世間話を始めたり、他人の良いと思ったところを急に褒めたり、ちょっとしたことで会話が生まれることがよくあるらしい。
世界から見ると日本人は特に、日常の中で知らない人には話しかけないのだと思う。
旅行サイトエクスペディアの調査によると、「飛行機の中で隣に座った人に話しかける割合ランキング」では日本人は堂々の最下位であった。
 

やたらめったら知らない人に話しかけられるのは、いくら社交的な人でもうんざりしてしまうとは思う。
場合や人によっては恐怖を感じることもあるかもしれない。
それでも、最低限の思いやりを持って、知らない他人と言葉を交わすことは素敵なことだと思う。
まちの中の知らない他人と話をすることは、そのまちで生きる僕たちが、お互いに「存在」を認め合う行為なんじゃないかと思っている。
 

他人と話す機会を無理矢理作り出している活動がまさしく僕らの愚痴聞き屋なんだけれども、2016年4月、記念すべき第1回目を終えた後のFacebookの感想で、僕はこう書いた。

”これをやって僕が発見したことは三つありました。……三つ目は、普段全くの他人である町の人達が、ちょっとしたきっかけで、同じ町に住む同じ仲間だと意識することができる、ということです。”

”今まで町の人達とにぎやかに会話をしていたのに、この愚痴聞きを終えた瞬間、すっと町の人達と距離ができて、お互いに「他人」になってしまった。そんな感覚でした。すごく面白い感覚でした。”

 
僕たちはどうしても、一人じゃなく、社会で生きている。
様々な瞬間で孤独を感じることがあるけれど、それはやはり、特定の誰かというよりも、社会との繋がりを感じたいことの表れなんじゃないか。
身近な家族や恋人、友達を大切にすることはもちろん大事である。
それと同時に、実は思っているよりももっと身近に存在する、同じまちの知らない人たちを意識することができたら、
その存在を認め合う一つの手段として、ちょびっとでも「話す」ことができたら、
人のことも、まちのことも、そして自分のことも、もっと好きになれるんじゃないかなあとぼんやり思う夜。

 

とある秋の夕方。
東和田の元町珈琲で一人で作業をしていた。
ロイヤルミルクティーを2杯飲んだところでトイレに行きたくなり、
近くの席に座っていた同い年くらいの男性に、勇気を出して、
「荷物ちょっと見ておいてくれますか」と話しかけた。
トイレから戻った際には「ありがとうございます」と小さく会釈。
閉店時間の帰り際、出る準備をしていると、
彼が僕の隣を通り、笑顔で「さようなら」と言ってくれた。
なんだか嬉しかった。

soshi

1991年生まれ。長野市出身。 大学の専攻はジャーナリズム。休学し9カ国放浪後、地元市役所に入る。福祉部門に配属となり、障害者のソーシャルワークなどを行なう...

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