自分と向き合うと、ろくなことがない

住人

≪おどりば≫が自分と向き合う場所だということは承知している。それを否定したりなんてしないし、生きる上で必要な行為だ、とも思う。でも、あえて言うと、それを過剰にすると、ろくなもんじゃねえ長渕剛になっちまう。少なくとも、わたしは自分と向き合いたくない。それをしすぎて、過去に4回失敗しているからだ。何度も書いてるけど、自殺未遂に至ったんだよね。妻も娘も見捨てて逝くつもりだった。でも逝けなかった。真夜中のビルってる屋上の淵から見た眼下は、ブラックホールよりも黒く渦巻いていた。恐れをなした。茶碗一杯分の精神薬をレモンサワーで流し込み、風呂場で溺死を試みたこともあるが、これも失敗。妻に倒れているのを発見されて、日赤に運び込まれた。目を覚ましたら女性看護師に「自分が何をしたのかわかってるよね?」と冷たく。3度目と4度目は1ヶ月の間に2度も失踪して、某所で首吊り自殺を試みたが、≪あと一歩≫の勇気が出せず、首に躊躇いの痣ができただけに留まった。

インターネットが神様の時代に、こんなことを書いて、個人情報だだ漏れで、のちのち後悔しそうだが、それ以上に、≪自分とは向き合うな!≫ということが言いたいから、書く。≪なんでこんなに仕事ができないんだろう≫とか≪自分を肯定できない≫とか、そこまで追い詰める必要はないんだよ。せめて≪転職しようかな≫とか≪生きる意味を考えたいけどめんどくさい≫くらいに留めておいてもらうことを、激烈におすすめする。

たとえば野球で投じられたボールをよく見すぎて打ちにいくと、筋肉が緊張して強張るから、あまりボールを見すぎてはいけないって、イチローさんが。すごく納得した、わたしは。野球経験者なので。高校野球最後の打席は、ツーアウトでわたしにまわってきて、ランナーは2塁に。2点負けていた。この時、投げられるボールを目で追うことに執着したあまり、一球目の甘いストレートを打ち損じた。決してホームランバッターではなかったけれど、あの球ならスタンドインできたはずの、おいしい球。それをミスって三塁線のファールラインの外側にボテボテ転がすという結果。今思えばラッキーにも打ち直すことを許された。それで終わりではなかったんだ。打席に入っている途中にも関わらず、監督が異例のタイムを要求して、わたしにこう伝えた。

「ボールをよく見て、あとは球運に任せろ」

肝なのは、ボールを見ることではなかった。自分のスイングをすることだった。そして運命に任せるだけだった。球筋を追うことに重きを置きすぎずに、全感覚で自分のバッティングをする、それだけに集中できた。結果はライト前ヒット。最後の最後に練習の成果が出たし、≪自分らしい≫バッティングができたので、28年経った今でも悔いのない高校野球人生と断言できる。

野球の話だと、伝わらないかもしれない。では、≪寝なくちゃ≫と思うと寝られない夜は経験ないスか? 明日5時起きだから、いつもより早めにふとんに入って万全のはずが、眼が冴えて眠れないっていう。途中で時計を見るともう1時をまわってたりすると、余計に≪寝なきゃ!≫ってなって。わたしにもある体験。多くの人にある話。これと≪自分と向き合いすぎる≫ことは、すごーーーーーく似ている。人間にはどうやら思い詰めすぎると余計にドツボにはまる罠があるらしいですヨ。お気をつけなさってくださいな。

さっき野球の話のところで書いた≪自分らしさ≫っていうワード。この≪自分らしさ≫も厄介な敵で、向き合い方がムツカシイ。わたしの場合、それを突き詰めすぎて疲れたし、自殺未遂もそれを無意識に過剰に問い詰めてしまったから、痛い目に。結論から言うと、≪自分らしさ≫なんてない。それは他人が決めることだし、だからこそ他者多様なのです。≪なかがわよしの≫という人間を自分では、臆病で生きるのが下手というふうに見ているけれど、「腰が低くて人当たりが良いですね」とか「やさしい」とか「お前は天然キャラだな」とか「堂々としている」とか「ユーモアがあるよ~」とか言われて、どれが本当の自分なのかわけわからないわけです。だから、いちいち振り回されるのはよそうと。≪自分と向き合う≫のは、オンラインで酒でも飲みながら、気の許せる友人とバカ笑いする時を通してできればいいんじゃないかなあ。まあ、≪おどりば≫に投稿する時の文体にはこだわりますけどネ。≪自分らしい文章って何か?!≫って。それは楽しいから、泥沼にずぼっとハマってもやめないヨ。まあ、何事もほどほどに楽しんでということだねえええええ。

なかがわ よしの

生涯作家投身自殺希望。中の人はおじさん。早くおじいさんになりたい。

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