三つ目のみつめなおし


朝焼けの時間にうごいたのは、久しぶりだった。
当たり前に寝ている時間に、動き出していたのは、大学の頃ぶりだった。
たくさん、社会人になると、忘れていくことが多すぎて、嫌になる瞬間がある。それは、同じ環境にいたら、全くわからないことだ。
小学校とかだって、毎日同じ場所で活動しているのに、なぜあんなに毎日が輝いていたのか、ってふと考えたけれど
毎日が知らないことの繰り返し、そして、経験していても携わる人が全く異なる(1年ごとに学年が入れ替わったりクラス替えをしたり)だったりで
毎日が、「新しい」の連続だったからにほかならないし、それを「認める」空間があったからこそ、できたこと。
何事も初めての際は、びっくりおっかないんだけど、それを「覚えていく」ことは、必ずしもいい結果を生むとは限らない。踏襲することだけが
成功であるとは思わない。それは、まさに今の自分の周りに足りていないことだった。そんなことにすら、気づくことができていなかったその事実に
ものすごい辟易としていた。
その中で、みた朝焼けはどこかとても懐かしくて、どこかすごく、解放されたような気持ちになって、ものすごく苦しくなった。

かつて、そこにいたものは、いなくなっていくけれど、記憶や「もの」として、ずっと存在し続けることで、「ある」状態をずっと保つことができる
それなのに、日常の中に物として置かれた「もの」は、記憶から削除されてしまうことが多い、それはまさに「社会人」として生きていく中で忘却してしまうことばかり。
生活のために仕事しているわけではないけれど、そこから少しまだ抜け出せなかったじぶんに、非常に辟易としている。
それを忘れる環境が強制的に訪れることに、非常に辟易としている。
全て壊したいと思った。壊すことが私の生き甲斐であるとも思っている。それは、破壊という意味では必ずしもなくて
今ある「当たり前」が当たり前」ではない、ということを知らしめたいような側面を持っていて、それが知れ渡ることで何も
変わらないかもしれないけれど、あぐらをかいて、負担ばかり負わせることと怒号を散らせば足りると考えるその気持ちわるいatmosphereに
終止符を打たなければいけないという使命感のようなところも相まってのことである。壊す、は必ずしもニヒリスムの一面ばかりではないということも
わかってくれる人は本当に少ないけれど、その少ない理解者の先にはいつも真理があるから、私はその、「わかっていてもやらない」くそを蹴散らして
その先にあるコモンズを追い求めて常に生きていきたいのであることを、改めて思い出したような気がする、
いわゆる、2つの目じゃない、感覚としての「三つ目」で、それをみてとることが、「また」できたんだと思う。
一周回って、落ち着いたわけじゃないんですね。私は私。尖ったいちめんはずっと、心の中にあり続けていて、それは常には正しくないことは
もうわかるようになったから、それに基づいて、ナビゲーションを間違わないように、消すものは消して、いらないものをつけた足さないけれど
可能性がつぶれるようなことは心底嫌だとヘイトしながら生きていきたいと思います。
夜は眠るものではなくて、起きるものだった私が、朝起きて普通に生活するようになって学んだことは、朝起きている人たちが
全て正しいわけではない、ということ。朝焼けの先に見える景色の中にも、確実に真理があって、その先にそれぞれの正解もある。
そんなバカでもわかることすら忘れてしまっていたこと、それが本当に嫌いだったここさいきんのじぶん。
「三つ目治せて」よかったー。
肩入れしすぎず私は私の道を突き進んで、必ず私らしく生きれることが確定しているこの世界で、もう少しだけ頑張ってみよう。
10号室 t tatsuより
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