黎明
私は今も信じるという行為が怖くてたまらないんだ
この関係もきっと長く続かない。いつかなくなってしまうんじゃないか
そうなる前に自ら手を離してしまうほうが傷つかなくて済むんじゃないか
かみさま、嫌われないという自信を
ください
私は随分長年、生まれてきてからずっと、自分で自分を傷つけ過ぎてしまった。
両親は、家庭内暴力が原因で離婚した。父は調停中に失踪し、養育費は1円も受け取れなかった。
幼い頃は母子ホームという場所で暮らしていたが
その頃の母の声の記憶がない。
いつもチラシやプリントの裏で筆談していた。
母は目の前ではなくどこか遠くにいるような、
わたしも母も
存在しているようで存在していないような感覚
母は失声症だった。
*
私は父に顔がとても似ているらしい。
(父の顔はもう記憶にないし、今も行方不明だからきっともう会えないし、写真も残っていないから確かめようがないのだけれど)
だから母は私を見るとその人を思い出し、健康なこころが保てないからと私を追い出した。
周りから色が無くなっていく。
私は透明になっていく。
悲しいよ、苦しいよ、助けてよ、
どんなに心で叫ぼうと誰にも聴こえていない。
透明になった私は気づけば
児相の大人が運転する白い車に乗って知らない街に向かっていた。
私の暮らす家は施設になっていた。
*
当時7歳の私はなんでこんな事になっているのかの真相も、現状も
正確に把握できるはずもない。
明日になればお家に帰れるだろうと思っていた。
煮えない鍋をどれだけ見つめ続けただろう
それでも
母を嫌いになれなかった。どこかで愛してくれるだろうと、迎えに来てくれるだろうと期待した。
子供にとって親は絶対のもので、嫌われない自信すら持ってしまうものだから、裏切られたと錯覚した。
憎かった。悔しかった。
私はこの顔を選んで産まれてきたんじゃない。でも、この顔のせいで私は愛されなかった。
ううんそうじゃない、顔なんか関係なく愛されたかったよ
*
それから10年以上経ち20代前半が終わる頃、私は結婚することになった。
家族というものを知らずに、家庭というものを知らずに結婚することに人生最大の恐怖を覚え、
自分の人生と起こった出来事にきちんと向き合いたいと思って母を訪ねた。
私が生まれる前のことから、知りたかったことを全部、
当時つけていた日記のようなノートも見せながらひとつひとつ話してくれた
家族心中しようとしたことも、生まれて初めて知った。
(全く記憶にないのだけど…。あまりにもショックな出来事だと、解離性健忘といって人は記憶から消してしまうことがあるみたい)
児相に預けられたことも、施設に入った理由も。
私を受け入れられなかった理由も。
全部、1つずつ、母の話を最後まで聞いた。
「お母さんは私のこと、愛してた?」
やっと聞けた。
「愛してるって言ってよ」
やっと言えた。
母とふたりきりの、1日に及ぶ母とふたりきりの会話の最中、
自分の中にあったドロドロの醜くて汚い気持ちが全部涙になって
私は止まることなく泣き続けた。
この日、生きていて初めて母を ゆるす
ことができた。
それと同時に、ここまで生きた自分を、これから自分で愛していきたいと思った。
母もひとりの人間で、母なりのその時のベストを尽くしたんだと思う。
母がした、私を離してでも生かすという選択が間違っていなかったのだとしたら
経験に意味があるのだとしたら
今よりも命を愛していたい。
私はよく、どうして「道を踏み外さなかったの?」
と聞かれることがよくある。
抜けられなくなる世界に足を踏み入れていく友人が大多数なのは確かであるし、私も何度もそうしようとした。
でもそのたびに何度も、もう一緒に暮らしてもいない母の顔がよぎった。
きっといつか受け入れてくれる、愛してくれる日がくる。
その期待を捨てきれなかった私は
ここでこれを選んだら、愛される可能性を失ってしまう気がして怖かった。
自分の人生なんだから、自分で好きなように選択していいのに。
どこかで母が受け入れてくれそうなものを選んでいる自分がいた。
愛はいつも私を支配した
*
*
10年前のわたしへ
あなたには嫌われない自信がある相手がいる?
それは家族だったり、友達?自分?
きっと
いないよって答えるかな。
いまの私にはいるんだ。びっくりした?
10年前のあなたの傷さえも少しなら癒やすことだってできるんだ。魔法みたいでしょう?
欲しい答えは何年も何年も先にやってくるんだ。
ずるいよね、苦しいよね。
その代わりに遅れてやってくるそれはとんでもなく、生きてていちばん、例えようもない、信じられないようなしあわせだって感じられることだったんだよ
あの時もうちょっと生きよっかって繋いでくれて
ありがとうね。
畑、続いています。
この記事へのコメントはありません。