アフロディーテギャングとフィッシュマンズの共通項

住人

生きるということは≪過ち≫。生まれてきたこと自体が間違いだった。わたしは罪を背負っていく覚悟がない。正しい日本語で書くことを拒否しているのは、逃げている証拠。≪アフロディーテギャング≫とは何なのかを、書く気はない。文章が説明っぽくなるし、今時、自分で検索しろよって思うし。まあ、それも文章に正面から向き合っていないと言われれば、「はぁ、そうでせうか」と、太宰治。とぼけるな。最期まで逃げ切れると思うなよ。

フィッシュマンズの佐藤さんは最期まで音楽に立ち向かっていった人。『映画:フィッシュマンズ』を7、8、9月に一回ずつ観た。DVDで何度も観た映画は、『ロスト・イン・トランスレーション』とかいくつかある。でも、映画館に3回って言うのは、さすがにない、46歳なのに。ディカプリオの『タイタニック』を「今日で30回目を観たわ」って言ってた花屋のおばちゃんは今も元気かしら?! ともかく、フィッシュマンズのその映画は素晴らしくて、それはリアルタイムで佐藤さんの死を体験してしまったからかもだけれど、若い方々にも聴いてほしいと思うんだよねえ◎。

佐藤さんの詞は、日常の延長線上の言葉を用いて、気易く耳に侵入。そのあと≪退屈≫という鈍器で、遠慮なく殴り殺そうとしてくる。ほわーっとした音楽性(いわゆる音響系)と見せかけて、安心していると、ずぶずぶ罠に。おしゃれな音楽なんかじゃない、生活の匂いがするから。フィッシュマンズをファッション/おしゃれ感覚で聴く人には、正直、うんざりだな。勘違いするなよ。着せ替え人形じゃないんだ。そもそも音楽は、さ。

アフロディーテギャングの核心である舐達麻のバダサイが書くリリックは、佐藤さんと同じ匂いがする。音楽性とか生き方は違うが、ウォークマンでたまたま並んでシャッフル再生された時、まったく違和感がなくて気づいた。≪言葉のナイフ≫を研ぎ澄ましていることが、至近距離以上に近い。生きることの過ちはもちろん、延々と追いかけてくる怠惰との対峙を恐れていない。

君が今日も消えてなけりゃいいな――――――『ゆらめきIN THE AIR』フィッシュマンズ

コンクリート突っ込む140km 最期の会話後ろ見とけ後ろ――――――『FROTIN’』舐達麻

たとえばそんな言葉たちに、秀逸さを感じずにはいられないし、てゆうか、ポカンとしているお前は、裸の王様かよ! わたしが毎回怖い画像を掲載していたのは、近寄りがたいサイコパスな人という≪予防線/バリア≫を張っているってことにも気づかないの?!

≪君が消えてしまえばいい≫という残酷な投げやり感と≪君が消えていなくなってしまわないでいて≫という刹那が、言わずもがなのダブルミーニング。言葉に身を捧げる覚悟を佐藤さんの詞に感じずにはいられない。ポッと出て来る言葉じゃない。いつ何時も、考え込んで手繰り寄せた言葉でしか存在し得ない。

強盗をして時速140kmで逃げたけれど、事故って逮捕。その事故の際に、仲間のひとりを失ったことを赤裸々に、どこまでも生々しく、リリックにしたバダサイにも≪生き様≫を。生きて来た中で起こった出来事を包み隠さず、かつ、きちんとそれがクリアに伝わるように言葉を選び、発していることに覚悟を感じる。

表舞台のポップミュージックで、そんな意志を持って音楽を奏でている音楽家はほとんど、いない。中島みゆきは生きた伝説で、まだまだ全容は知れないし、手嶌葵は言葉を大事に歌っているが、自作の詩はあまりないから、どちらもまた別の覚悟だ。≪生きる=どろどろ≫は金にならないからな。フィッシュマンズや舐達麻が売れていないと言っているわけではないけれど、100万枚分も伝わる言葉ではない。いい詞であり、優れたリリックであるから、皮肉だけど。平べったい、どうにでも取れる言葉の方が、大衆には好まれる。だから商業音楽でも軽視したりはしない。だが、わたし的には、対極の言葉たちに魅力を。罪を背負っていく覚悟が垣間見える、それに。

わたしは「生まれてきて、ごめんなさい」とまでは言わない、前言撤回。死ぬ覚悟も生きる覚悟までもがない。このままでは中年太りは酷くなっていくばかり。満身創痍でなければ言葉に説得力がなくなるから、満身創痍で痩せたい。ってなんか、違う気もするが、「みんな違ってて、みんないい」ってあの人が言ってたから。だから、わたしひとりくらい「良いお年を」とか「あけましておめでとう」とか言わなくてもいいよね。

なかがわ よしの

生涯作家投身自殺希望。中の人はおじさん。早くおじいさんになりたい。

プロフィール

関連記事一覧

  1. この記事へのコメントはありません。