「このひ」を忘れない。

大学生になって、就活が終わって、友人とBBQの火を囲んで。それでも次のステージへ向かう不安は溶けなくて。そんな夏の夜に、ふと唄いたくなる歌がある。
ジリジリジリジリジリジリジリジリジリ…
その日も、今日みたいに、ジリジリが響いてくるような夏だった。それは、高校3年生の夏だ。
蜃気楼はメラメラと揺れていて、周りの友達は最後の文化祭に向けてワイワイと準備を進めている。そんな中、私の心の底に横たわっていたのは焦げきった炭のような虚しさだけだった。
インターハイに目標を見据えていた陸上競技大会。調整は万全だった。予選大会の100mでは、自己ベストだけではなく高校歴代最速になる10秒台の記録が生まれ、リレー種目も県大会まで進出。進出が決まった瞬間には、仲間と肩を抱きかかえ合って喜んだ。当時、私の中の陸上競技への情熱は際限なく燃え上がっていた。
しかし、困難は容赦なく訪れる。県大会の数週間前、リレーメンバーの一人が怪我のため走れなくなってしまった。中学の頃は少人数学校だったため、帰宅部の個人として陸上競技を続けていた自分にとって、念願だったリレー種目。何としても結果を残したかった。走れなくなった仲間のバトンを受け継ぎ、リレーメンバーの炎は更に高く燃え上がった。
ジリジリジリジリジリジリジリジリジリ…
県大会当日がやってきた。トラックには蜃気楼が揺れている。干からびそうな炎天下の中で遂に始まったリレー種目の予選。欠場した仲間の応援を背負いながら、補欠のメンバーと共に円陣を組む。周囲には私立の強豪校。
ラスト50m、アンカー同士の闘い。あと1人抜かせば上に行ける。揺らぐ炎。熱風を切りながら「この背中を追い抜けたなら、このメンバーでインターハイに行けるなら、自分の種目はどうなったっていい」と本気で思った。それでも、離れた背中は近づいてはくれなかった。
描いていた煌めく未来とは全く温度の違う、凍えた絶望の塊が目の前に立ちはだかった。「リレー種目」という希望が潰えたショックは、今までの人生で経験したことのない嵐となって心身を遍く這いずり回り、今にも消えそうな灯をも殺そうとしていた。
そして、その灯にトドメが刺された。最終日、個人種目100mの決勝。
「On Your Marks…」
「Set…」
鳴り響く砲声と共に飛び出す脚。前半の細かい脚運びにブレがあったのか、後半になっても開かない差。
振り返ってみれば、敗因はシンプルに「平常心の欠落」だったのだと思う。焦燥感に駆られて、前に前にとフォームはブレていくばかり。その感情を体現するかのように、フィニッシュでは躓き、すっ転ぶ有様。僅差でゴールした後輩が喜ぶ声を横で聞いて、退場口へ向かう時の眼には、既に希望の炎は宿っていなかった。
結果は「7位」。北信越大会へ進めるのは「6位」まで。それが現実で、それは永遠に変わることのない数字になった。火を見るよりも明らかな、純然たる「挫折」に襲われ、私の陸上競技に対する炎は失われていった。
どんなに速い選手でも、毎回の勝負に絶対に勝てるわけではない。「速い」選手と「強い」選手は違う。私は平常心を保てる「強い」選手ではなかったのだ。あれだけ魂を燃やし続けてきた陸上競技を駆け抜けた後に思い知ったのは、ただ茫漠と存在する己の「弱さ」だった。
私の夏は、終わったのだ。私の炎は、燃え尽きたのだ。山々に夕陽が沈む頃には、炎天下も陽炎も熱風も、皆どこか遠くへ行ってしまい、帰り道の車窓には、無音のエンディングと透明なエンドロールが流れていた。
ジリジリジリジリジリジリジリジリジリ…
県大会が終わってから数日後。相変わらず続く茹だるようなジリジリの中で、清々しく部活を引退して勉学に勤しむ同期の傍ら、私と言えば、ただ言われるがままに家と学校を往復を繰り返していた。勉強に気持ちを切り替えられるほどの器用さなんて、これっぽっちも持ち合わせていなかった。
ライバルがインターハイに進んでいく中、まるでプールに浮かぶ枯葉のように、どうしようもない夏を揺蕩っていたのだ。
そんな或る日、クーラーの効いた部屋でスマホが揺れた。中学からの付き合いで、同期で、帰宅部の友人SからLINEだった。
「部活、終わったんだろ。ヒマしてんなら遊ぼうぜ」
ポッカリ空いたスケジュールと心には断る理由も気力もなく、その日からはSとの帰宅部活動が始まった。寄り道してアイスを食べたり、クーラー部屋でスマブラをしたりした。Sといるときだけは、何かが失われていくだけの日々のことをいつの間にか忘れていた、そんな気がする。
Sという男は、いつだって飄々としていた。それでいて、好きなものにはアツい男だった。何かに所属したりすることもなく、いつも自分の好きなものを追い求めていた。そんなSが、なんだか遠い存在に見えた。
駆け足でやってきた文化祭初日。私とSは一通り遊び終わって、黄昏れ時の公園でブランコを揺らしていた。沈みゆく夕陽に任せて、どれだけ遊んでも溶けない虚無感に少しでも抗うべく、冷え切った私の内心をSに打ち明けてみることにした。錆びたブランコがギッ、ギッと揺れている。
もしインターハイに進めていたら、スポーツ推薦で大学進学をしようと思っていた。けれど、今となっては、それももう叶わない。そして、「自分はアスリートとして弱い人間なのだ」という自覚に襲われる中、スポーツ系の進路には全く前向きになれない。だからと言って、他の進路も見当たらない。
「俺。この先、何を燃やして生きていけばいいのか、分からないわ…」
当時、そんな思いは全て手帳に書き留めていた。書き留めなければ虚無感で頭がどうにかなりそうだったからだ。Sを手帳に見立てて、一通りの思考と感情の吐露が終わった。ブランコの揺れが段々に収束していく。Sがおもむろに、けれど優しく、口を開いた。
「お前の好きなことって何だよ。走るの、嫌いになった訳じゃないだろ。」
ブランコは無意識に揺れ始めていた。氷にヒビが入るかように鋭い風が耳元を擦り抜けた。この時まですっかり忘れていた、私が陸上競技を始めた理由。それは、風を切って走る感覚、仲間と繋ぐバトンの感触が楽しかったからだ。それが、好きだったからだ。
それがいつの間にか、タイムとか順位とか、そういった「速さ」「強さ」とかが全てだと思うようになっていたのだ。それが高校時代の陸上生活の全てになっていた。好きなものを好きと言える気持ちを取り戻したのは、奇しくも小学生の頃、初めての陸上大会に出場した7月上旬の日だった。
ジリジリジリジリジリジリジリジリジリ…
文化祭最終日の最後の催し、ファイアーストームまで来ても、相変わらず炎天下はジリジリと地面を焦がしていた。前日までと変わらない天気、むしろ放水や泥にまみれて走り回って、全身ビチョビチョのドロドロのはずなのに、私の心は幾分か晴れていた。
大きくなる夕闇に反比例して段々と小さくなっていくファイヤーストームの炎。全校生徒が炎を囲んで肩を組む。私の隣にはSの姿があった。お互いに肌が火照っている。文化祭のフィナーレ、「このひ」を唄う時間がやってきた。
この火を消そうとジリジリ近づいてくる陰がある。時には激しい風も吹き荒れる。私が私らしく走り続けようとしても、大人になる中で、きっと忘れてしまうこともあるだろう。
それでも、忘れたくない言葉がある。忘れたくない時間がある。
だから、これからも私は唄い続けるのだろう。「このひ」を、忘れないために。

「このひ」
この火がいつまでも
消えないでくれるといいな
失っていくだけの日々から
僕を救ってくれた
信じた夢を叶えられる
そんなぬくもりが背中から Ah
風の向き 土の匂い
赤と黒の混ざった色
となりの君のその真剣なまなざしを
ずっと忘れない
この火を思い出す日が
いつか来たとして
僕らはそのとき
きっと今持ってる何かを失っている
でも覚えていれたなら
僕らはいつでもここに戻れる
今を青春と呼ぶのなら
大人になるのも悪くない Ah
火のぬくもりを忘れない

季節ごと、思い出す人や歌や言葉や風景がある。どんどん時間が過ぎるにつれて曖昧になっちゃう。それでも「嗚呼、忘れたくないな」と記憶に上書きしようとする思い出が私にも有ります。