かわいそう、なんて傲慢。
「かわいそう」という言葉が、この世界で6番目くらいに嫌いだ。
苦しんでる人や辛そうな人を見たとき、人は案外平気な顔で「かわいそう」という。かくいうわたしも、無意識のうちに口にしてしまい、しまった、と思うことがある。
このことについて考えた最初のきっかけは、大学3年生のときのこと。
記憶から抹消したいほど嫌な経験に、自分なりに折り合いをつけて知人に話してみたとき、ひどく平坦な声で「えーかわいそう」と言われた。
別に共感してほしかったわけじゃない。でも、あーもうだめだーと思って、心のシャッターをそっと閉めてしまった。話さなきゃよかった、と。
そう言った彼女のことを今では悪く思っていないし、本当に同情してくれていたのかもしれないな、とも思う。 まあ「同情」というのもあんまり好きな言葉ではないのだけど。
でも、どうしても心に引っかかって、自分自身がかわいそうであることを認めたくなくて、しばらくもやもやとしていたのを覚えている。
するとコピーライターの糸井重里さんが以前、ほぼ日刊イトイ新聞の「今日のダーリン」でこんなことを言っていた。
人それぞれの感じ方があるのかもしれないが、ぼくは、小さいときから「かわいそう」と思われるのが、なによりもいやだった。
「かわいそう」と平気で言う人のことを、ご親切にありがたいとは到底思えず、早くそこからいなくなってくれと思っていた。
あんたが言ってるそのことばが、ぼくの、いちばん言われたくないことばなんだと怒っていた。
今日のダーリン(ほぼ日刊イトイ新聞)
糸井さんでも似たようなことを思うのだ、となぜか少しだけ安心した。
「かわいそう」っていったい何なんだろう。
弱い立場にあるものに対して同情を寄せ、その不幸な状況から救ってやりたいと思うさま。同情をさそうさま。 ───大辞林 第三版
辞書にはこんなことが書いてあるけれど、本当にそれだけだろうか?
「かわいそう」に含まれている成分は、決して純粋なものだけではないと思う。妬み、優越感、哀れみ、いろんな感情がないまぜになったとても厄介な言葉だ。
もし仮に、本当に気を遣って言ってくれたのだとしても、「かわいそう」と言われるともともとあった傷がよけいに深くなる。お門違いだと思いながらも、時に怒りすら覚えてしまう。
それはやはり、「かわいそう」という言葉に、何かしらの優越感や見下すような視線を感じるからだ。もちろん時と場合によると思うけれど、それが透けてみえる瞬間は決して少なくなかった。
勝手に「かわいそうな人」とレッテルを貼られることほど、惨めな気持ちになることはない。
わたしもつい口にしてしまい、しまった!と思うことがあるのだけれど、それは結局自分のものさしでその人の状況を「かわいそう」だと判断しているだけだなのだ。
自分の尺度で他人を測ること自体、傲慢である。
そしてわたしたち人間は、そのことをすぐに忘れてしまう。自分がされて、傷ついて、ようやくハッと気が付いたりする。
常に意識しつづけられる人はいないし、どうしたって自分の尺度でものを語ってしまうことはある。自分で基準を持っていないと不安だし、生きていればそれを求められる場面もある。
でも、できることなら誰も傷つけずにいたいし、自分もできるだけ傷つかずにいたい。そのためにできることがあるとすれば、自分の尺度こそが正義であると相手に押し付けないことくらいなのかもしれない。
正直、まだ明確な答えは出ていない。
ああ、誰かと関わりながら生きていくのは難しいことばかりだ。
でも、生きている以上、こうした問いに向き合い続けたいし諦めたくないなと思う。
今はとりあえず、それでいい。
そう思えていることを忘れないように、この場に残しておこうと思う。
とてもハッとさせられました。
私は、どうだろう、
ついつい「かわいそう」という言葉を口にしてないか、思わず省みました。
「自分の尺度で他人を測ること自体、傲慢である。
そしてわたしたち人間は、そのことをすぐに忘れてしまう。」
この言葉を心に刻んでおこうと思います。
それでもきっと忘れてしまうから、
またあきさんの記事を読み返して帯を締めなおしていきたい。