10という側面、10という本質
全ての世界に通用する、数字。
全ての世界で、10は10。
けれど、同じ10でも、英語なら ten
スペイン語なら diez
ドイツ語なら zehn
日本語なら、じゅう
様々な呼び方があって、多いことを表す時もあれば、少ないことを表すこともある。
同じものを表現するのに
感覚や文化でここまで変わってくるんだと、
興味を持つ。そんな最中、NHKの番組でやっていた、
改名
に、ふと、考えを寄せてみた。
今日からあなたは、「」です。
って言われたときの気持ちは、どんなものだろう。まさに、生まれた瞬間がそれだろう。だけど、その瞬間のことなんて覚えていない。
気がついたときには、与えられた名前として人生が始まっていく。悪く言えば、そう育ってほしいという、親のエゴでもあり、中立的に言えば、表彰的な区別要素でしかない。かつ、同時に、その人にしかないオリジナリティのひとつでもある。
ときには、その名前が、生きる道を作ることもある。
名前のせいでいじめられること、名前がきっかけで前向きになれないこと、そのほか諸々、その人を定義する一番大きなものと言っても過言ではない一つのシラブルのひとつひとつなのだから、それもあり得ることだろう。
それを打破するために、一度と言われる人生において、その名を変えて、別の人生を歩もうとする特集だった。名前を変えて、生き方を変える。それでも、自我はのこっていて、その中に曲げられない自分自身もあって、なんだか不思議なかんじがしたけど、それでも、それほどまでにパワーのある、名前、呼び方、呼ばれ方、つまり、ある意味では、定義のひとつ。
大切なのは、その人自身だよ
っていうことを、たくさんの本で言われてきたし、相談すれば相談するほど、誰にでもそうやった言われてきた。
わたし自身に限らず、様々な物事には、様々な呼ばれ方があって、呼び方があって、それによって印象を左右したりする。
10のように、同じものなのに
呼び方や名前一つで、印象が全く変わってしまう。
そのもの自身はひとつであって、唯一であることは、曲げられない事実。ときには、その顔が、阿修羅像のようにたくさんの顔を持つことだってあるだろうけど、その対象となるもの自体は、いくつもあるものではない。
その本当のものは、ひとつだけ。
でも
最近は、僕は、そのたったひとつの、唯一性がある、自分自身ってほんとは何?って、悩み続けている。
パズルのように、たくさんの要素を組み合わせて、その、組み合わせの結果として、オンリーワンが紡ぎだされていく。資格、職業、血液型、誕生日、その他諸々。
事象としては、ありふれた、すでにあるもののなかから、新しいものを作り出して、紡ぎ出すこの人生において、僕がここまで積み重ねてきたものの虚無感と、浪費家であることへの嫌悪感を重ねて、わたし自身がどうありたいのか、果たしてありたい自分は本当に自分自身なのか、よくわからなくなってきてしまった。
特定の人から、声が好き、雰囲気が好き、歌が好き、ベースが好き、そうやって言ってもらえる事もある。自分の中で一番嫌いな面を好きだといってもらえることは、確かにここまで生きていた証として、胸を誇れることだ。
むしろ、わたしの中で、わたしらしさとは、生き方や身のこなし方を踏まえた、その人自身の仕草やことば、感性にこそあると思っている。どんな仕事をして、お金を稼いで、あるいは貧乏であって、食べるものもままならない、なんてことがあったとしても、本質のわたし自身は、わたしの中で常に生き続ける。
それでも、どこか、離人症の名残もあるのか、わたしはわたしの人生を生きれているのか、時折、ものすごく不安になることがある。
まさに、今がそれである。
わたしはわたしです。
常にそう言い続けてきたような気がする。
そのわたしが揺らいではもう
元も子もなくなってしまうのだろう。
働いている時の私も、寝ている時のわたしも
まぎれもない、わたし。はたらいているときは、他人との関わりあいや、お客様への対応で、真摯に向き合っているとはいえ、向き合ってる自分自身は、わたし自身ではなく、その場に適正に対応されたわたしの化身のようなもの。だけれど、わたしとかけ離された存在ではなくて、それもわたしの側面。
寝ているときのわたしは、
わたし自身がどのようであるか
自分では把握できないけれど、それもそれで
わたし。
素な一面こそ、わたしの本質かもしれないけど、一方で作り上げる自分の姿も存在しているから、どちらも側面的で、どちらも本質的なわたし。切り離すことは結局のところ、できないんだね。
改名した人たちは、本質的な自分を大切にしながら、新たな側面としての自分を取り入れて、それをもまた本質に変えようとしているのだろうか。
全く新たな自分になろうだなんて、本当に素晴らしいことだし、すごいことだと思う。もちろん、その人たちは、過去の自分を無にしたいわけではないとも言っていた。
受け入れ、をやってのけて、それでいて、離別を覚悟する。すごいパワー。
過去も未来も今も、
どの自分も、結果として唯一無二の歴史を紡いでいることは、間違いないんだけど、時折、どの自分を一番軸にして生きていけばいいのか、わからなくなる。
ニヒリズムを大いに取り入れたわたしなのか、生真面目で確実に全てを遂行する自分自身なのか、優しさが取り柄の僕なのか、はたまたせっかちで生き急ぎがちな俺、なのか。
きっとわたしは、改名をしたとしても、その本体の自分に迷い続けてしまう。
法的な改名でないにしても、呼ばれ方が変わるだけで、そこに宿るわたしらしさが変わってしまうこともあるかもしれない。
10のように、普遍的になりたい。
状況によって、捉えられ方は変わっても、その絶対的な存在は変わらない、そんな、10のような存在になりたい。
側面的な性質がなんかあったとしても、確固たる本質を携える、10になりたい。
その側面すら、本質的なものの一つなんだよ、って、胸を張って言える人生でありたい。
わたしは、胸を張って、わたしなんだよ、って言いたい。
もう少し迷い続けることになりそうだ。
けれど、たくさんの人のおどりばを見てきて、それぞれの人が、それぞれの人生のステージで、もしくは今で、悩みあがき、また喜び嬉しくなり、そのなかで、紡ぎ出される魂=文字の叫びたちが、またわたしのなかの、わたし、を呼び起こしてくれるような気がしている。
10、という縁のある数字に出会って
わたしそのものについて考えを述べる初秋の候。
No.1だって、only oneなんだよ。
だからもちろん、No.10だって、
only oneなんです。比較するものなんてほんとは、一つもないのかもしれないね。
とかく、市井を俯瞰して、一般的になりがちな人生に向かって
大事なのは、あなた自身だよって、
わたしが言えるようになるときには
もしかしたら、この世界での役割を
終える頃になってしまうのかもしれないけれど。
10の部屋より、t tatsuでした。
あ、すごい。
これが、わたしが今回t tatsuさんの記事を拝読して、抱いた感想です。
わたしは半年前とか1年前くらいまで、「あたし」が一人称でした。文面でも「あたし」って言ってたからちょっと子どもっぽかった。「わたし」に変えてから、ちょっとお姉さんになった気分。
よく、「その人を、その人たら使めるものって、なんだろう」って思います。恋人に対しても「わたしの何が良いと思ったんだろう、どこか好きなんだろう、わたしは恋人のどこが好きなんだろう」って。わたしが保育士を辞めたら振られるのかなとか、魚座の人が羨ましいとか、AB型ぽくない自分が嫌だとか、諸々。占いは好きだけど全てが当たってる訳じゃないし、占いありきで人を見たくはないし、学歴も職業も、それありきで人を判断したくは無いし、とか考えてると、「わたしをわたしとして証明するもの」「わたしにしか無いもの」って何だろうって考えすぎて分からなくなります。
結局、今は、血液型も占いも学歴も何もかも盲信せず、目の前の人と対話して、受け入れて、人として好きになっていけたらいいのかなって思うようになりました。
名前も不思議。ゆうり先生って呼ばれる時と、ゆうりって呼ばれる時と、名字で呼ばれる時って全然違う。名字で呼ばれることが本当に嫌い。
こうやってうだうだモヤモヤ考えるわたしも、わたしの一部ですね(笑)
普遍的で、芯が通っている自分でいられたら、わたしも「これがわたしだよ」って、胸を張れるかな。
大事なのはわたし自身、これを体現できるように自分の芯をしっかりさせようって思いました。