無知の知 を認める自分
無知の知
という言葉がある。
古代ギリシャの哲学者ソクラテスが言った言葉だそうだ。
意味は
「自分に知識がないことに気づいたものは、気づいていないものよりも賢い」
だという。
つまり、「自分はまだ「知らない」ということを「知っている」」ということだそう。
その意味で、「無知の知」を知っていることは、確かに賢いのかもしれないが、その分苦しいこともあるんだろうな、と思うこの頃。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
日常六心
というものがある。
① ハイ、という素直な心
② ごめんなさい、という反省の心
③ ありがたい、という感謝の心
④ 私のようなものでも、という謙虚な心
⑤ させていただきます、という奉仕の心
⑥ いつもニコニコ明るい心
仏教の教えらしいのだが誰の言葉なのかは定かではないようだ。しかし、日本人なら「たしかに」と思うことが多いのではないだろうか。
私自身、この観点で自分を見つめ直す機会を最近もらい、自身がいかにこの「日常六心」、特に「ハイ、という素直な心」が足りていなかったかを痛感した。
今までの自分を振り返ると・・・
アドバイスをもらってもどこか素直ではなく「自分は正しい」と思う心
そもそも、アドバイスをしてくれていることそのものを、どこか自分を否定しているように感じてしまう心
「いや違いでしょ」と思うと我を通そうとする心
そうすると、今まで
「なんであの人はああなんだ」
「なんでなんで・・・」
と原因を外に求めていた自分が
「あー、なんて自分はできないんだ」
という自己否定につながる。
おそらく自分がそういう「素直でない心がある」ことに気づかずにいれば、いいか悪いかは別として、ある意味、私自身はもっと楽に、そして自信をもって振舞えていたのかもしれない。
でも
「自分がまだまだだ」
と思うからこそ成長できる
わかる
わかるんだ、だけど
自分のできなさを自覚し、認め、そのうえで前に進もうとすることはとんでもなくエネルギーがいる。
だって、誰しも自分が一番かわいいし、苦しい思いなんてしたくない。
でも、「無知の知」で「自分は知らない」ということを認めることと同じように
「自分はできない」
「自分は足りない」
ことを素直に認めること
それも「自分なんて」という自己否定ではなく
それがあって初めて「賢くなれる」、つまり人として「成長」できる
頭ではわかっていても、ふとすると「素直になれない心」が顔を出す
頭でわかっていることを感情や心が邪魔をする
だからより苦しい
人間ってなんてめんどくさい
人生楽ではないな、なんて思う。
でも、楽ではないからこそ、得られた時には大きなものとして帰ってくるのだろう。
長年欲しかったものが手に入った喜びが大きいように
苦しい練習の末に得た「勝利」「自己ベスト」という結果がこの上なくうれしいように
人生山あり谷あり
山や谷を乗り越えながら前に進む
よく言ったものだな。
この記事へのコメントはありません。