人は独りでは生きてけないという話
私は流れ流れて、現在白馬村に住んでいます。80年後半か、90年代前半頃に建てられた古い一軒家に住んでいます。
そこには小さな畑と庭があって、私は家に飾る用の花を詰みに庭先の花を切っていました。
すると隣の畑持ちの奥さんが「この花も一緒に飾って」と声を掛けてくれました。
「良いんですか?」と会話をしていくうちに、あれもこれもとゴーヤ、しその実、オクラ、ミョウガ、モロッコインゲン…と、沢山の野菜達まで頂いてしまった。
田舎のご近所付き合いは暖かくて、素晴らしい。
私は心をほくほくとさせながらそう思いました。
人は独りでは生きていけないという話。
この世に生を受ける時点で、人は独りで生きてはいけません。赤ん坊が誰一人の手を借りず、迷惑をかけず、自立するのは不可能なこと。
そして所謂“大人”になったとて、それは同じ事。
私は長く一人暮らしをしていますが、独りでは生きていけません。
初めは誰の知り合いもいなかったこの村で、この生活がそこそこ楽しいなと思えるのは人がいるからこそ。
離れても仲の良い弟がいたり、たまに会うことができる遠方の旧友だったり、村内で親切にしてくれる知り合った人たちだったり。縁のつながりは様々だけれど、親切にしてもらったり親切を返す事で生きていると感じている。
たぶん、私は、この先にうんとお金持ちになっても人の為に生きたいと思う。
四半世紀生きてきた中で、私は自分の時間を、自分自身の為よりも家族の為に使ってきました。
次にや友人、そして恋人、それから自分。
優先事項の中で「自分」というコンテンツは後回しだった。
自己犠牲、自己嫌悪、自己肯定感の低さはすごいぞ。自分で言っちゃうけどね、根本はネガティブなので、明るさの裏にはいつもしんどさがありました。
家族が死ぬ度、私の生きてた理由だったから、どうやっていいか分からなくなってしまって、ここ数年実のところヤル気が出ない。
そんな働きたくないし。(前が馬鹿みたいに働いてたから)
自己肯定力を高めること、自分の為にも生きること。私のこれからを生きていく課題。
少しずつ、以前よりかは、無理をしない生き方が出来てるのかなと思う。
けれど私は、やっぱり他人の為に何かをするというのが向いていると思う。
貰ってばかりの人生よりも、与えている方が生きやすい。
与えてばかりなのは他人をダメにするし、自分が必要以上に利用されてしまうから、そこは学ばないといけないと思うけれど。
誰かが笑顔になってくれた時、有難うと言葉にしてくれた時、私は自分の存在意義を満たしている。私は生きてて良いんだと思う。
消費税があがって、終身雇用と年金が崩壊して、私たちが生き続けていくのは困難の困難になってきちゃったね。
けれど、心まで貧しくなるなよ。私は貧乏でも心までは貧しくなるもんかと生きてて、お金は相変わらず無いが、いい事はたくさんあった。
ここらで私と約束しておきませんか。
親切に生きていくこと、自分を大切にして相手も大切にする与える人になる事を。
あとこれも言っていいかな。
政治家になるのは時間もお金も(はたまたコネ?)も掛かるけれど、選挙にも面倒くさがらず行こうね。自分がどういう未来で生きたいか、投資のようなもんだと思うんだよ。何、単純なことでさ、消費税増税が嫌なら、其れを廃止する人や党に入れたらいいんだよ。私たちが出来ることは少なくても、声を届ける権利は有るんだ。
あれ、なんか、今回「食べてこ?」って記事じゃあないなと思ったみなさん、そして私。
いやいや、やっぱりさ、生きてく為にはまず食べることじゃろ。
だから今月もしっかりと食べてこね。
今月もくららさんの記事を読んでしゃんとしようと背筋が伸びるのを感じました。
>>「貰ってばかりの人生よりも、与えている方が生きやすい。
与えてばかりなのは他人をダメにするし、自分が必要以上に利用されてしまうから、そこは学ばないといけないと思うけれど。」
与えてばかりなのは他人をダメにする、その言葉にはっとしました。
私も人のために何かをするのが好きで、ひとの喜びが自分の喜びのように思っていました。
でも、それだけではいけないのだと最近気付きその辺りのバランスを考えていくようになりました。
もらってばかりでも、与えてばかりでもいけない。何事も過ぎるとバランスを崩してしまうんだな、と。
今月もしっかり食べていきます!最近、ちょっとした変化があって食べ物を前よりも美味しく感じられるようになりました!