競うこと 競わないこと 完結編

住人

「競うこと 競わないこと その①」の続きです。前回は違う記事を挟み込んでしまいました。台風で気が滅入ったこともあるけど、このテーマから逃げたいという気持ちも、少しだけあったかもしれません。

前の記事でも言ったけど、僕は競うことが苦手です。妬み嫉みの感情になることが嫌だし、そういった感情を相手から向けられると、「もう、この人とは仲良くなれないんだな」と思ってしまいます。普段の生活で競う必要なんて、なにひとつなくて。それぞれの人に、良いところ、僕がすごいと思うところがあるのに、それをなんで大事にしないんだろうと考えてしまいます。

妬み嫉みの感情は、個人が抱えるコンプレックスによるものだと思うけど、だからといって、意図的かそうでないかは置いておいて、相手を攻撃して欲しくないし、卑屈になってほしくない。

わからないことは素直に聞いて、知りたいことを互いに教えあって、相手の良いところを素直に褒めて、そうやって過ごしていたい。蹴落とすとか、足を引っ張り合うとか、そういうことがなくなるといいな。

話が逸れましたが、なぜ自分が競うのが苦手なのか について書きたいと思います。これも前の記事に書きましたが、僕は運動神経が悪いんです。アメトーークの運動神経悪い芸人は、自分を見ているようで、心が苦しくなって、観ることができません(運動できないことを笑いにすること自体、滅茶苦茶イヤ)。小学校の頃は、足が早い、スポーツ万能の男の子が、まぁモテたと思います。モテる=イケている。他者から承認される。というのが、僕の認識です。ということは、運動神経の悪い僕は、イケていないし、他者からの承認が得られない。何よりイケていない自分が嫌で、人から好かれることもなければ、自分のことも大嫌いで。小学校の頃は、学校での生活が全てだったし、そこで、イケていない、運動ができないということは、人間性が否定されているのと同義でした。自分で自分を認めることもできなかった。

運動が苦手なぶん、発想や感受性を活かすことが、得意な部類ではあったと思います。読書感想文とかは書けば絶対に賞を獲れたし、環境問題について日記を三ヶ月間書いて応募するコンテスト(?)では、当時全国で3万人程応募者がいた中で、一番良い賞(=日本で一番)を獲ったこともあります。中学に入ってからは、CGアニメーションのコンテストで、市の方では一番良い賞、県の方でも奨励賞的なものを獲りました。でもそれらは誰かと競ったのではなく、なんとなく楽しみながら取り組んでやってたら、たまたま得ることができた結果です。

競うという行為では、とにかく嫌な結果や感情しか得ることができず、競うこと自体が苦手になりました。でも、なんとなく楽しんで取り組んだことでは、意図せず良い結果を得ることができた。このような経験が、今の自分の価値観を構成しているんだと思っています。運動も楽しめれば良かったな。

ここまでを振り返ると、競うこと全てが悪いことなのか、という気もしますが、そうではないはずです。昔の経験から、競うことについて考えたり、競う環境に身を置くことを逃げてきた節がありますが、自分の中の深層まで潜って考えてみたいと思います。

まず、競うって、そもそもなんだろうか。

①相手がいること
②勝ちと負けがあること
③共通認識や数値的な基準があり、それに相手よりも近づけるという行為

このあたりが、競うという行為の定義でしょうか。

この定義に沿って、競うという行為の種類を考えてみます。運動だけではありません。ゲーム、企業間競争も、競うことです。ほかにも会社内でライバルを見つけ互いに高め合うとかも、競うというカテゴリにいれても良い気がします。

ここまで考えて書いてわかったことは、僕は競うこと全てが嫌いではありません。ゲームは好きです。好きだった、が正しいですが(今はほとんどやりません)。それは、自分が楽しんで取り組めることだったから。ゲームに勝つことは、自分の中のロジックやプレイがよりゴールに近いことの証明。それに、楽しい時間を他の人と共有することに満足感を得られます。

企業間競争は良いことです。寡占状態の防止に繋がるなるから。消費者が、服、食べ物、様々なサービスを、より安く、より良い品質で、得ることに繋がります。

競争によるメリットは、他にもあり、目標に対してより早い速度で行動できるなどといったことも、あるのかなと思いました。

自分が嫌な競争は、人間性の否定に繋がりかねない競争です。
「会社内でライバルを見つけ互いに高め合う」
「◯◯さんよりも、かっこよく(可愛く)ありたい」
とかは、自分は避けたいんです。思っていてもいいけど、それを口に出したり、SNSに書くとかは、自分はやりたくない。

むかし、ポケモンGOをやっていたとき、学生時代の友人が、「8月31日までにポケモン捕まえた種類数で勝負をしよう」と言ってきたことがあります。僕は、まぁいいかなと思ってそれを受けましたが、本当は自分のペースで楽しみたかった。結果としては自分が負け、2人の間でそれが完結すればよかったのに、結果をツイッターに書かれ、とても嫌な気持ちになりました。ゲーム絡みで嫌だったのが、それとあとは、友人とボードゲームをしていて自分が勝ち続けて、露骨に向こうが怒ってたこと。人とゲームで楽しい時間を共有したかった自分としては、残念でした。前者のポケモンGOでは結果を公開されることで自分が否定されている気分になったし、後者のボードゲームでは相手がボードゲームの勝ち負けに対しこだわりを強く持っていたのでしょう。

全ての競争が嫌なわけではないけど、できることなら、目の前の相手を競争ではなく共生の相手として僕は見たいです。相手と競争ではなく協力することで良い結果が生まれることもあるはず。会社でも、個人だけではなく、チームとして良い結果を生むためには、ということを、よく考えています(自己犠牲のサービス残業はやめます、やめるようにしなきゃいけない、正当化すんな自分を!! 改善するよ!!)。

共生といっても、相手に頼りすぎることはなく、自分でなんとかしなきゃいけない。自分の力が強くなければ、自分でなにも生み出せない。生み出したいんや僕は。楽しくて自分が満足できる未来を。



いま記事を書いて2時間以上たちました。
脳が疲弊しています。松屋の牛丼食べたいお。
コーヒーとガムで凌いでいる。




今回の記事を書いてわかったことは

①競うことが嫌になったのは、小学校の運動神経ダメ男であった経験からで、負けることが人間性の否定だと自分が感じて、ずっと自分が引きずっていたから。人間性を否定される / 相手をしてしまう ことが自分は苦手だということ。

②楽しんで取り組むことで、良い結果が得られることもある。

③競うことの全てが嫌いな訳ではない。楽しんで取り組める競争や、競争によるメリットもある。自分がダメなのは、人間性の否定に繋がりかねない競争である。

あたりかな。













おいおいおいおい!!
なに最後に「今回の記事を書いてわかったこと」で締めようとしてんねん!!オオオイ!!

競わず平凡に過ごし、嬉しいことを享受して周りの人と暮らしたいけどさ、もっと幸せになりたいとか、思うし、ひとり絶望することも、あるよ。ある。

22号室のtsumikiさんの記事、めちゃくちゃ刺さった。

↑ very mettya sasatta

周りの人と比べることもある。
「比べるなら過去の自分と」って、今でも思っているし、そこに偽りは無いんだけれど。それでも、周りや世間一般の目線も、気にすることはある。どうしようもない気持ちにもなる。もっと早く決断や行動しておけば良かったなとか、考える。

「30才近くには結婚して家庭を持って安定!!」とか「車買え」とか、そういう考え押し付けて欲しくないけど、気にはなる。世間一般の基準。

そういうことを考えて気にしたり不安になることは、周りの人と、競っているということなんだろうか?

自分が挙げた競うことの定義は、
①相手がいること
②勝ちと負けがあること
③共通認識や数値的な基準があり、それに相手よりも近づけるという行為

だけど、競うことに近いんじゃ。


…でも、周りと比べて自分について考えることは、競うことではないと、思っていたいな。勝ちと負けじゃない。周りの人を見て比較することで、自分の立ち位置や進度がわかるけど、これは競ってるわけじゃない。

なにより、他の誰でもない、自分自身が本当に良いと考えていて、得たい結果 を自分は得たい。周りと比べて、卑屈になったり、妬んだり、それが得たい結果に繋げるためのエンジンになることもあるけど、でも、ここまで考えても、少なくとも人間性みたいなものでは、人と競いたくないや。楽しんで取り組むことで結果が得られることもあるし、穏やかに過ごしていた方が周りの人は自分を受け入れてくれるし、受け入れられることで、それが自分のエンジンになることもあるから。


毎度ながらよくわからん記事に付き合ってくださって、ありがとうございます。記事を書いて3時間以上たちました。コーヒー400ml飲み干したけど、寝れるかな。いま23時47分。松屋の牛丼を食べてきます。

そんな競いたくないけど、幸せにはなりたいな。足搔いて生きていたい。


今日の一曲: モットー。 / 阿部真央

ワタナベ

新潟県上越市生まれ。THEYELLOWMONKEYが好きです。

プロフィール

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  1. ぬぬ

    こんばんは。考えさせられる記事でした。共感できるところも多かったです。
    いくつか聞いてみたいのですが、嫉妬の感情と尊敬の念の違いとは何でしょうか?自分には紙一重のものに思えてならないのです。(他人のすごい所ばかり見ていると、自分が矮小な存在に思えてきてしまいます。これは嫉妬でしょうか?)
    ぶしつけな質問ですみません。これからも応援しています。

    • ワタナベワタナベ

      ぬぬさん

      コメント返信遅れてすみません。
      嫉妬はマイナスで尊敬はプラスのような。気がします。
      自分はあまり人と対立したり、マイナスな気持ちを抱えたまま人と接したいと思いません。競うことが嫌で。他人は他人と思います。自分と他人と切り離して考えれば、嫉妬はなくなり、純粋にすごいと思えるし、尊敬になると思います。周りのすごい人はどんどんのびていってもらった方が自分は良いです。。やりたいことやれててその人が楽しくいれるなら。それが一番自分にとっては良いです。
      応援ありがとうございます。