おもしろさの自問自答

住人

「おもしろさ」って何なんだろう。
子供の頃って、毎日「おもしろさ」が転がっていたはずなのに
大人になるにつれて「おもしろさ」が
見えにくくなってきたような気がします。
「自分にとっての『おもしろさ』って何なんだろう」
「どうやったら『おもしろさ』を手に入れられるんだろう」

最近、そんなことばかり考える山吹が
コーヒー片手に、もう一人の自分と
小学生来の友人と駄弁るような感覚で
ラフに自問自答してみました。

うぃっす。

ーうぃっす。おひさ。一ヵ月ぶり?

あんま、おひさって程でもないか。

ー確かに(笑)

で、今日はちょっと話したいことがあってさ。

ーなによ。

「おもしろい」ってどういうことなんかなって。

ーなにそれ(笑)急にかよ。

「おもしろコンプレックス」

いやさ、俺って無駄に真面目なところあるじゃん。

ーまぁ、あるね。

生徒会長とかやってた時代に、真面目な部分がカチカチになっちゃってさ。なんか今「おもしろい人」に、すごい憧れを抱いてるわけよ。言うなれば「おもしろコンプレックス」みたいなものがあってさ。

ーなるほどね。で、今回は真面目に「おもしろさ」について話したいと。

そうなんだよね。結局、真面目なんだけど。でも、今の俺が「おもしろさ」を手に入れるためには、これしか手段が思い浮かばないのよ。

ー不憫だな。でもまぁ、なんかおもしろそうだから協力するわ。「おもしろさ」について、とことん考えてみようぜ。

いろいろな「おもしろさ」

そもそも、「おもしろさ」ってマジで何なんだろうな?

ーう~ん。まぁ、いろんな「おもしろさ」があると思うぞ。「ウケる」だったり「楽しい」だったり「興味深い」だったり。時と場合によって、「おもしろさ」のニュアンスは変わるんじゃないかな。

そうだなぁ。人によっても「おもしろさ」を感じるポイントって違うじゃんね。笑いのツボとかギャグセンスって呼ばれたりもしてるけど。それぞれに好きな芸人がいるのと一緒で。

ーそうそう。「おもしろい」といえば漫才があるよな。漫才って、そんなに深く考えなくても「おもしろい」って感じられるからイイ。気楽に「おもしろい」を味わえる。でも今さ、卒論を書きながら考察を深めてる時に思うんだけど、ウンウン考えてるからこそ「おもしろい」って思えることもあるんだよな。

なるほど。思考の深さによって「おもしろさ」の質が変わってくるっていう説かぁ。「ウケる」と「興味深い」の違いって、そこにあるのかもしれないな。俺にとっての「おもしろさ」っていうのは、漫才と卒論でタイプが違ってたのかもしれない。早速、発見があったぞ。

ーやったな。おめでと。もう帰っていいか?

もうちょっと付き合ってくれよ。

「つまらなさ」を考える

逆にさ、「つまらない」ってどういう状態なんだろうな。

ーもしかしたら「つまらない」って言ってる時って、怯えてるのかもしれない。「おもしろくなくなること」に。

どういうことよ。

ー最初から「つまらない」だったら「おもしろくなくなる」ことはないじゃん?失望しないために、希望をもたないっていう。

毎日「つまらん」ばっかり言ってる時って、そういう心理が働いてるのかもなぁ。でも、「つまらん」ばっかり言ってる日々って、なんだか自分自身が「つまらん」状態になってるような気がする。

ー確かに。「おもしろくなくなる」っていう結末があったとしても、「おもしろさ」を求めていった方が「おもしろい」ってことなのかもな。

ちょっと待って訳が分からなくなってきたぞ。

「おもしろい」=混沌なのか?

そういえば、カオスな状況って何故か笑いが込み上げてくるじゃんね。だから、自分の中で「おもしろい」=混沌説があるんだけど、どうなんだろう。

ーなるほど。じゃあ逆に、「つまらない」=平穏ってことなのかな。

どうなんだろう。平穏なことは決して悪いことではないけれど。ただ、人が「おもしろい」って思う時って日常というよりは非日常の方が多いのかもしれないな。ほら、修学旅行とか、M-1グランプリとか。

ーあー確かに。でも、毎日が修学旅行だったら嫌になっちゃうな。「おもしろさ」より「めんどくささ」が勝つというか。「もう平和はおなかいっぱい」だったり「もう混沌はおなかいっぱい」だったり、人それぞれに「おなかいっぱい」のキャパがある気がする。

で、境界線を越えると、反対側に行きたくなるっていう。もしかしたら俺たちって、混沌と平穏を行ったり来たりしながら、ちょうどいい「おもしろさ」のボリュームを探してるのかもな。

「おもしろさ」の在処

ー行ったり来たり、で思ったんだけど。もしかしたら、「おもしろさ」自体は動いてなくて、俺たちが「おもしろさ」に近づいたり離れたりしてるだけなんじゃないかなって思ったんだよね。

どういうこと?

ーほら、たとえば子供の頃はコロコロコミックが「おもしろかった」けど、今はそうでもないとする。でもそれって、コロコロが「おもしろくなくなった」っていう訳じゃなくて、自分たちが「おもしろいと感じなくなった」っていうことでさ。

あー。その代わりに、ドライブとか居酒屋みたいに新しい「おもしろさ」が現れていく、みたいな?。

ーそうそう。だから、俺たちって色んな「おもしろさ」を通過していく存在なのかもしれないな。

そういう考え方もあったか。

他の「おもしろさ」を受け入れる

そういえば、2019年12月のM-1グランプリ見た?

ーみたみた。優勝、「ミルクボーイ」っしょ?おもしろかったな~。「ぺこぱ」も話題になったな。

今回も、個性豊かな「おもしろさ」が会場を沸かせててさ。自分の「おもしろい」と審査員の「おもしろい」のポイントも違ったりして、それぞれの「おもしろさ」があっていいじゃんていう雰囲気もあって、それが何だか見てて嬉しかった。

ーお互いの「おもしろい」が違ったとしても、「それも、確かにおもしろいね」「そういうおもしろさもあったんだ」って、それぞれの「おもしろさ」を尊重するっていうのは大事だよな。

「おもしろさ」と「めんどくささ」

あ、そうそう。あと、自分の中で「おもしろさ」ってもしかしたら「めんどくささ」と表裏一体なんじゃないかっていう説もあってさ。

ーほうほう。そういや、ジブリの宮崎駿監督が「大事なものは、大抵めんどくさい」なんてことも言ってたっけな。

それに近いかも。大抵「おもしろい」って感じるものって、裏側で「めんどくさい」を積み上げてきてるのよ。ジブリ作品とかもそうだし。

ージブリは、本当に「おもしろい」もんなぁ。宮崎駿監督が「めんどくせ~」って思って何もしなかったら世の中にジブリは存在しなかったのかも。あの、細かい背景描写とか、こだわりの詰まった設定とか。

自分のこと振り返ってみると、大人になってから「めんどくせ~」とか「つまんね~」が増えてきちゃった気がするなぁ。子供の頃って、なんでもかんでも新鮮で「おもしろい」って思えたから、「めんどくさい」って思う前に身体が動いてたような気がする。

ー確かに。例えば「友達と会ってゲームする」ってだけでも、今更ながらに考えたら結構な要素をこなしてるもんなぁ。「いつ」「どこで」「誰と」「どんなゲームで」遊ぶかを決めて、約束通り集合して、実際にゲームして、解散する。それを全部「めんどくさい」と思わず、毎日のように遊んでた訳だし。

多分、心から「おもしろい」って感じてるものは「めんどくさい」って感じないんだと思う。大人になって、それを少しでも「めんどくさい」とかって思っちゃうのは、友達とゲームする「おもしろさ」を昔より感じられなくなってしまっているからなのかも。もしくは、単純に心身が疲労してるか。

ー大人になって、生活の中で疲労を感じるようになると「楽」を追求するようになるからね。できるだけ低コストで、ゆるく生きる。年を取るにつれ、「おもしろさ」を得ようとすると思いの外エネルギーが必要になるんだってことに気が付いてしまっている感はあるなぁ。

老化ってヤダね。そうねぇ。低コスト、かぁ。たしかに、なるべく小さい「めんどくささ」で、できるだけ大きな「おもしろさ」を手に入れたいとは思うけど。でも「おもしろさ」ってコスパで考えちゃうと、ちょっとしんどい気もするな。

ーまぁね。コスパで考えると、蕎麦打ちとか点描画とか、「凝る楽しさ」って一生楽しめなさそうな気がしてくる。

チョイスが謎に渋いな。でも、それは確かに。友達と遊ぶことも、趣味に没頭することも、「めんどくささ」のコスパで考えずに、純粋に「おもしろさ」を感じていたいなぁって、それはホントに思うよ。

「おもしろさ」を考える「おもしろさ」

結局「おもしろい」って何なんだろうな。

ーまぁ、こうやって真面目に「おもしろさ」について考えること自体が「おもしろい」とも思うし。まぁ、何かしらに「おもしろい」って感じられる日々を過ごしていたいもんだね。

なんかこの下り、前もやったような気がするな。まぁ、なんとなくまとまってきたところで、ぼちぼち解散しますか…。

ーじゃ、また。風邪ひくなよ~。

ほ~い。さいなら。あ、そういや、あけおめ。

ー今更かよ(笑)

山吹

ペンネーム。note→https://note.mu/fukujin 連絡先→yamaoide@gmail.com

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