2億円の体
あなたの価値はいくらですか?
なんていうことを言うと、
・人を価格で判断するな!
・人に値段をつけるなんて・・・奴隷じゃないんだから!
・人は生きているだけで価値があるんだぞ!
ちょっと考えるだけで、これだけの反論が頭に浮かぶ。
人の命と金銭的価値は今までたくさんの分野で語られているも、答えはよくわからない(自分が見つけられていないだけかも知れないが)
ここで、金銭的な価値から、人間としての価値、に移ってみる。
——–2016年に相模原で障がいのある人たちが大量に殺傷された。
マスコミや週刊誌、SNS、論文では有識者や一般の人たちが思い思いに自分の考え方を述べていた。
大半が被告のやったことを”感情的”に批判するものだ。
その際、”人権”というキーワードが”暗に”飛び交っていた。
メディアは、「被告は「寝たきりの障がい者に生きる価値はない」という主旨を変えていない」と伝えている。
被告が自分の考え方を変えることは、おそらくないと思う。
もちろん、多くの人を殺傷したことそのものは決して許されることではない。
これを前提として、僕は考えた。
「生きる価値」に焦点をあてた時に、極端なかたちで表れてしまったのはあまりに凄惨で、被告の考え方すべてに肯定はできない。
ただ、完全には否定できない自分がいた。
というのも、人に「おまえは生きる価値がない」と言われるのと、自分で「自分には生きる価値はない」と感じることの差はどこにあるのか、という問いが解消されていないからだ。
自己決定することが果たして良いことなのか。
自分で自分の命を決められないから、人に選んでもらう。
人に選ばれるのは嫌だから、自分で自分の命の価値を決める。
自分の意思決定をどう表すのか、という問いにもつながってくる。
免許証の裏に臓器提供の有無を書いたり、自分の死について本気で考え行動したり。
自分に意思がある人ならば、それがまだある内に決めることはできると思う。
では、元々自分で意思決定ができない人たち、あるいはしているのだがこちらが受け取れない人たちはどうするのか。
それは現在、家族や成年後見人にゆだねられている。
ただ僕は、「自分が意思決定をできなくなった段階で、自分は死んだ」と考えている。
自分で「生きたい」とも「死にたい」とも考えられなくなった時点で、僕は死んでいる。
だから、人に「あなたは生きる価値がある」と胸を張って支援者を演じる専門職といわれる人たちを見ると、殴りつけたくなる衝動に駆られるときがある。
「俺以外の人間が、俺のことを決めるなよ!」と
そこにお金が絡むと更にややこしくなる。
専門職「人の価値はプライスレス!!生きているだけですばらしいぞ!!」
自分「うん、それはわかった。では、あなたは私が生きるだけのお金を出してくれるの?」
専門職「それとこれとは違う」
当たり前のようだけど、個人的には矛盾をはらんでいる思う。
———-ここからは人とお金の話。
人が生きていくためにはお金がいる。
僕らは働いて、お金を得て生きているし、納税をしている。
その税金が、彼らの生きるお金として使われている。
それが民生費という歳出項目の中で4割を占めているものの中身だ。
(生活保護費、年金なども同様に)
家の中に、お金を生み出さない人がいると、お金がかかる。
子どもであれ、障がい者であれ、高齢者であれ、難病者であれ、ニートであれ。
感情的なことは一旦脇に置いて、あくまで事実として。
一部また一時期は税金などで補えるかも知れないが、それでも世帯の自己負担は決して軽いものではない。
当然のことだが、人が生きていくためにはお金がいる。
誰であれ。
——————————————ここからは自分の話になる。
自分は家族に支えられ、 たくさんの医療スタッフに支えられ、 生きながらえてきた。
同時に、自分はこの歳になるまで、膨大な医療費を使ってきた。
ここまで生きてこられたのは、皆が毎月汗水垂らして働き、納めた社会保険料のおかげだ。
概算だが、おそらく1億円は軽く超えていると思う。
1人の人間が30前後まで生きるのに、1億円を費やす。
そして更に、”移植”という治療で、もう1億円近くかかる。
ましてやドナーと呼ばれる、人の臓器をもらって生きる。
ドナーがどんな人なのかはわからない。
生まれながらの脳死の人なのかも知れないし、バリバリの働き盛りだったが事故で植物状態になってしまった人かも知れないし、小さい子どものいるお母さんかも知れないし、突如病気になってしまった未来ある学生さんかも知れない。
僕よりも遥かに生きていくのにお金がかからず、納税額が多い人かも知れない。
僕1人が生きるのに、2億がかかる。
その2億を、果たして僕はどういう形で返していくのだろうか。
「生きているだけで良い」と言われるには、はばかれるだけの金額だ。
ましてや、普通に働いているだけでは一生掛けても返せる金額ではない。
大卒のサラリーマンの生涯年収の3分の2にも匹敵する金額をかけて、生きるだけの価値が自分にはあるのだろうか。
今の自分にとって、生きることはプレッシャーだ。
間違っても自分自身に「生きていて良いよ」なんて言えない。
ただ、希望はある。
将来は、お金と自分というところに価値を置きたくはない。
達観までいかなくても、自己承認欲求という言葉を聞いた時に「懐かしいな」と言えるようになれればおもしろいのかも知れない。
2億円を別の価値に転嫁できた、と「思えさえすれば」この呪縛から解放されるのかもしれない。
そのときは、脳と心臓と肢体を締め付けているこの鎖を、部屋の壁にでも飾っておこう。
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