コロナ禍で渦巻く

住人

 

在宅で仕事をするようになってから1ヶ月が経過した。当時の長野はまだ外出自粛の空気が浸透しきってはいなかったけれど、社会の情勢を鑑みて、子供を保育園へ預けるのをやめるため、会社へ在宅勤務への切り替えをお願いした(快く許可していただきました)。それからというもの、生活が大きく変化した。

先ず、当然ながら自宅にいる時間が増えた。会社業務での外出はほとんどなくなったし、それ以外はスーパーに行くか、近所のカフェにテイクアウトのコーヒーを買いに行く程度。丸二日ほど陽を浴びないことも珍しくなくなった。引きこもり時代はこんなことザラにあったけど、生産的な活動をしながら外出しないのは初めてである。

伴って、家族と過ごす時間が増えた。自粛開始当初はニュースを見てパートナーとともに一喜一憂していたが、子供はどんな状況でも、基本的に元気だ(ときに激しく泣き叫ぶ)。いかなるときも欲求に正直だ。黙々と仕事する大人たちにも容赦なく要求を浴びせ、画面越しの打合せ相手へのアピールも欠かさない。いま、保育士さんの存在って尊いな、と改めて感じる大人は少なくないだろう。

あ、いや、間違ってもいまの環境が窮屈だとは思っていない。こうでもしないと家族とこんなに過ごす時間は作らなかっただろう。外出はできないし、仕事量は以前の倍くらいになったし、身体はバキバキだけれど、幸せに時間が流れている。拙いけれど、家族というのはいいものだ。

 

さて、誰しもに生活への影響が及んでいることと思うが、いまの状況をどう捉えているのだろう。僕は(批判を恐れず言えば)極めて ”興味深い” ときの流れに身を置いている、と思っている。私たちが構築してきた概念や慣習を問い直すことを強制的に迫られている。歴史上、こうしたパンデミックが社会を大きく変化させてきたようだ。何度目かの変革のゲートに足を踏み入れた私たちは、如何に「変容」していくのだろうか。しばらく、「変容」をテーマにいろいろな人たちと会話をしていきたいと思っている。自身の価値観や仕事の変化、この後の社会の在り方。そんなものを伺っていきたい。単純にこういう話が好きなのもあるが、いまがきっと、それぞれがそれぞれの幸せのかたちを模索する機会であろう。不条理がなくなって、幸せの総量が増えるターニングポイントと、前向きに捉えたい。

 

以前にも書いたが「流れるように生きている」と言われたのがしっくりきている。僕にはこだわりというものが殆ど無い。芯というか軸というか、そういうものは持ちつつ生きているとは思うが、欲というものが大きくはないのだろう。

最近、この「流れる」というのが、「求められるほうに行く」ことと、ほぼ同義であると気づいた。必要としてくれているところに引き寄せられていく傾向にあるようだ。一方で、少しこの在り方にも限界が来ているようにも感じている。ありがたいことなのだが、ひとりでは抱えきれない量になってきた。そんな悩みの最中で、社会全体が大きな障壁にぶち当たり、水面には最大級の螺旋が生まれはじめた。

混迷の渦中で、僕はどこへ流れていくのだろう。流れ着く先はあるのだろうか。あったとして、そこはいったいどこなのだろうか。不安はありながらも、どこか楽しみにも感じている。

 

 

ハタコシ

おどりばの大家です。深層の想いをともに捜しに。

プロフィール

関連記事一覧

  1. この記事へのコメントはありません。