強制的なアウトプット社会に無言のホホエミを
*注・ちょっと表現に過激な部分がありますので、食事中にご覧になることはお勧めしません。
僕は、知ることが好きだ。
知ったことが日常生活でリンクすると心躍る。
いわゆる雑学、といわれるものが特に好きだ。
今までは無益と思っていた雑学は、年を重ねるにつれ、いろいろな人たちと対話や議論をしていくうえで、教養に該当するものも少なくないことを知った。
ビジネス書を読むのが好きだ。
Youtubeで要約動画を見て、気に入ったのは躊躇なく買う。
そこでは「身にならない読書は悪だ」「アウトプットしないとインプットする意味がない」「行動せよ」などなど…さぞご自身でご努力なさったどえらい筆者様が、様々な表現でそう書き連ねる。
アウトプット…そう、アウトプット。
憎むべき悪の元凶でありながら、世の中に認められている愛すべき行動。
非常に厄介な概念が常時表に出てきたものだと思う
自分はその行為そのものは嫌いではない
だが、「外へ出す」ということを念頭に置くと、「外向け」に表現を変えなければいけなくなる。
仮にそれを「言葉」とするなら、外向けに変えた段階で自分の言葉ではなくなる。
もちろん、外向けに自分の言葉を出せばよいじゃないか、という意見もある。
ただ、個人的には外に出した時点で、その言葉はゾンビになると思っている。
動いているけど生きていない。
言葉が感情を持ち、人を愉快にも不快にもさせ、メッセージとして意図的に何かを伝えるようになってしまったら、それは既に自分の中の言葉ではないのだと思う。
人を愉快にさせたい、不愉快にさせたい、何かを伝えたいという意思や意図があるのならまだしも、自分の中から湧き出た言葉に付与させてしまうとたちまちゴミくずになる。
時折、嫌になる。
外に出せるだけの知識や経験や想像ができずに、それでも外へ出さないといけない状況の時。
無理やりにでも思っていないことを発信しないといけないとき。
自分が世に出してしまった、水を大量に飲んだあとの下痢のような出力物を見ると、カメムシが目の前でつぶれたような感覚がいつまでも残る。
そんなんなら出さない方が全然まし。
時間をかけてゆっくりと本を読んで、講演会に行ったり、面白いことをしている人たちと会ったり。はたまた、記事やニュース、哲学や経営、経済、プログラムの本とかを読んで刺激を受けたり。
「何か外に出そうかな器」が徐々に満たされていって、その量に応じた出力物が産み落とされる。
これが僕の理想だ。
こういう時自然と湧き上がってくる言葉はたとえ外に出すものであっても、違和感を覚えない。
結果としてメッセージになったとしても、それはとらえる人によって変わってくるのだから、それはそれで良い。
意図しない方向に捉えられるときもあるかもしれないし、意図通りに伝わることもあるかもしれない。
伝えることをなりわりにしている人であれば、むしろ意図的に伝えることが必要になるんだと思うけど。
結果、自分がそうやって世に出したものに何にも反応がなくても、満足したものが生み出せればなんかうれしい。
でも、自己満足の成果物を「あなたの文章が好きです」と言ってもらえると、それはそれで…ちょっとうれしいんだけどね。
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