セルフナラティブへ飛び込め

住人

 

しっかりと おどりば に言葉を吐き落としていくのは5月以来だ。

 

コロナの影響で環境が様変わりしてしまい、その対応や差し迫る仕事に忙殺される数ヶ月だった。稼働量がコロナ以前に比べ150〜200%となってしまい、結果として多方面にご迷惑をおかけしてしまった。その反省もあって、向こう数ヶ月はあまり仕事を受けない方針でいる。といっても、元々お受けしていた仕事や年間のスケジュールなどもあるので、なんだかんだ忙しくはなりそうだが。いまも仕事のことが頭からは離れないけれど、ようやく自分のことに目を向ける余裕が生まれてきた。

 

「大人になった」効用のひとつかもしれないが、これでも以前に比べ自制が効くようになったもので、外から色々な刺激がグサグサと突き刺さろうと、丸2日寝込んだり夜中に突然家を飛び出したりしなくなった。その代わり、自分に目を向けるのが少しずつ苦手になってきているように思う。

 

コロナというやつは、僕らに様々な問題提起をしてくれていると思う。人間自ら生み出した固定観念や不条理といった社会の膿を100年周期で浄化しようと、雲のうえのほうから訴えかけられているような。それは一人ひとりの生活規模でも同様で、暮らしや生き方を見直すタイミングに差し掛かっているのではないだろうか。事実、人の密集した都心から移住を考えている人が増えているそうで、長野の新幹線沿いの地域では土地が売れだしてるそうな。

 

こういうときにあれこれと考察するのが好きな性分であるはずが、それどころではない日々を過ごしてしまった。なにかを深く考えようとすると、慌ただしい渦のなかでなんとか保ってきた自分が一気に崩れてしまいそうで。情感に富んだ表現に触れるのさえ、無意識に避けてしまっていた。

 

一方で、求めてもいるのだと思う。聞いている音楽で自分の気分がだいたい計れるのだけど、最近はヨルシカとかずっと真夜中でいいのにとかYOASOBIとか、ストーリー性を前面に出したような音楽ばかり聞いている。現実逃避の一環なのかもしれないが、物語のなかに自分を落としたいのかもしれない。

 

僕は最も身近な物語とは自己のなかにあると思っていて、心理学にも「セルフナラティブ(自己物語)」という言葉がある。僕は定期的に、意識的に、自分を読み解くことをしないと、自分がなにを考えているのか、自分の望みがわからなくなる(直感的に考えることが苦手だ)。ただしこれには時間的な余白と思考労力の余裕が必要であって、短期的な意味での「生活する」行為と逆行する行ないであったりする(ほかに手につかなくなる)。

まだまだ十分な余裕は持てていないけど、また少しずつ自分の海に足を踏み入れていきたい。いまの僕は、なにを考えているのだろうか。

 

ハタコシ

おどりばの大家です。深層の想いをともに捜しに。

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