願いを届ける、祈りを届ける

住人

夏は嫌でも「生」を思い起こさせる

日本人なら誰もが知っている「盆」があり、広島・長崎の原爆投下、終戦、、、どのメディアでも必ず話題に上がる

 

私自身も例外ではなく、去年の10月に祖母が他界し今年「新盆」だった

このご時世なので親族を家に読んでお経を唱えるのは「密」に該当するのではないかと家族の中で話し合いにもなったけれど、祖父が他界したときに行った盛大な葬儀に比べ、祖母の時は身内のみ。いわゆる家族葬として執り行ったため、そこまで大人数にならないだろうということで、当日玄関にアルコール消毒、検温、そしてマスクを設置しできる限り話さず(まぁ無理なんだけど)お経をあげてもらった

 

お坊さんの経を聞きながら、ふと「祈る」ってなんだろうとぼんやり考える

当たり前のように私たちは願い、祈る

これは、他国においては珍しい現象だ

 

知っての通り、日本は神仏習合の国

これだけでも珍しいが、日本人の大半は無宗教。そして、何かにすがり願う姿を「あの人は宗教に染まっている」と毛嫌いする人が大半だろう。

その大半が新年には初詣に行き、教会で永遠を誓い、寺で故人を偲ぶだろうに

 

 

これは、果たして何だろう?????

そもそもどうして神仏習合は生まれたのか??

 

 

少し歴史の話をすると、もともと日本は神が作った国とされている

そのあと他国から仏教が用いられ、少しずつ仏に対する理解が進んでくると、仏(主)は我が国を救うため、あえて神という仮の姿で現れるという仏派と我が国の神こそが主体でありその神が世界の人々を救うためにあえて仏の姿で現れているという神派ができた。

当時、疫病や飢饉など人の手ではない力によって生活苦を強いられていた人たちにとってみれば、神でも仏でも救ってくれる存在があるだけで救いになっていたので、神仏習合はいわば合理的だったのである(めちゃくちゃざっくりした説明だから興味ある人は自分で調べてみてください笑)

 

つまり、日本人である私たちは”見えないものに対して祈る力、願う力”というものがDNAレベルで刻まれているのである。

 

 

先日ご縁あって諏訪にある前宮を含め、知る人ぞ知る特別コースを案内してもらった。その際にも「祈りって何だろうね?」という話になり、そこから、中国の歴史と日本の歴史、儒教など、今の日本の本当に大元になった「心」の在り方を教えてもらった。

 

「和を大切にしなさい」

聖徳太子が初めて日本で作ったとされる法律の一番初めの言葉

 

今この言葉が一番しみる。

日本は倭という国を隔て実に2860年という長い歴史がある。

これは世界でも唯一を誇るもの。そして、これだけの歴史の中で成り立ってきたのは、日本の人々に誰かを支配するという心がもともとはなかったからだ。

日本最古の書である「古事記」を見ても、国譲りから国づくり、国守りまですべて「話し合い」によって成立している。

そしてこんな神話は世界中探してもない。

 

日本人に培っている「祈り」や「願い」は自分のためでなく、誰かのためというのが大半。表向きは自分のために祈っているつもりでも、その奥には誰かのための祈りや願いがが必ずある

 

昨今のコロナの影響で、お盆参りができない人や家族に会えない人がたくさんいると思う。そんな時、私たちは自然と見えないものへと手を合わせる。そして、遠くの地からお互いの健康と無事を願い、祈る

 

言葉の刃や見えない暴力に押しつぶされそうになるときもあるけれど、自分たちの中にある「願い、祈る力」をもう一度思い出し、あなたがみたい人の笑顔を浮かべながら、優しい世界があるのだということを信じてみて欲しい

 

Knoah

見た目はポジティブ中身は陰キャのアラサー。世界はいつでも優しいんだよ

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