偉そうに日本の教育について考えてみる
先日ニュージーランドにいる知り合いからこんな記事がメッセンジャーで送られてきた。
https://news.yahoo.co.jp/articles/7100dd1e93ad713e1ac907b94a1d04ded77b2d7f?page=1
今回はこの記事について書こうと思う。
このニュージーランドの知り合いは、私が学生の時にニュージーランドで学校見学させてもらった際に、すごくすごくお世話になった人。
いつも色々なことの核心を、痛いくらいについてくれる貴重な存在の人。
その人が送ってくれたこの記事。
内容はすごく端的に言えば、日本人の「批判的思考」の弱さ、が昨今話題になった「納豆やうがい薬の買い占め」につながっている、というもの。
確かになと思う。
ぼく自身はうがい薬を買うことも、納豆を気張って買うこともなかったけれど、でもこうしたコロナ禍で「藁にもすがる思い」でそうした情報に、ぱっと飛びつきたくなる気持ちがよくわかる。
もし情報が違っても、買っておいて損はないかな、なんて。
そして、たくさんの人が納豆やうがい薬を買っているのを見てさらにほかの人が「自分も」と思ってしまう。悪く言えば負の循環。
こうした状況を心理学では「バンドワゴン効果」というらしい。
よくある例だと、行列のできてるお店を見ると「あの店はおいしいのかな」「ちょっといってみようかな」と思ってしまう状況のことらしい。
まあ、とにかく心理学的にもある程度、納豆やうがい薬の買い占めは人間の性としてわかることなのだと思う。
でも、この記事ではこうした原因は日本人の「批判的な思考」の欠陥によるものだという。
そもそも「批判」とは?
その捉えは人によって異なるから一概に定義するのは難しいが辞書的には以下のようになるらしい。
【批判】
〔哲〕人間の知識や思想・行為などについて、その意味内容の成立する基礎を把握することにより、その起源・妥当性・限界などを明らかにすること
ぼくの中では「物事の本質を見抜くこと」と思っている。
先のうがい薬で言えば「誰が言っているのか」「どこで行われた、どんな検証に基づくのか」「その検証の妥当性は?」などなど。
もし仮にすべての人がそうして考えられたのなら報道から「うがい薬でコロナウイルスを予防できる」という誤った認識はなかっただろう。(そんな考え方ばかりする人しかいない世の中ってのも、それはそれでいやだけれど)
そして、この記事で言っているTALIS2018の結果とは以下のものである。
TALISとは「OECD国際教員指導環境調査」と訳され、学校の学習環境や教員の勤務環境に焦点を当てた、OECDの国際調査である。(文部科学省HPより)
この報告書の一部の質問項目で、「批判的に考える必要がある課題を与えている」と考える中学校教員の割合が参加48か国の平均と比べ極端に少ない、という日本の現状が明らかになったのである。(日本の中学校:12.6% 参加48か国平均:61.0%)
とまあ、現状を色々と突き付けられたぼくは何を思ったか。
その通りだな
悔しいけど。
その理由は2つある。
実は日本の教育の中でも先の「批判的思考」は重要だと考えられている。例えば授業の中でも「△△と考えた○○さんの考えは正しいだろうか?」というような問題を扱うことは必要なことだとされている。
でも、そうした「批判的思考」はどこか「作り物」感がどうしてもあるとぼくは思っている。
そうして身についた「批判的思考」が、先の「納豆・うがい薬買い占め」に歯止めをかけるようなものに繋がるかといわれると自信がない。
二つ目。自分は今必死に自分のできることをしながら毎日子どもたちとかかわっている。正直不自由もない。子どもたちは純朴だし、いい関係も築けていると思っている。
でも、だ。
先の状態を見るとそれで本当に良いのか、という葛藤を感じる自分もいる。
自分が普段行っている授業や子どもたちとのかかわりはもしかしたら、先の「買い占め」を生むような子どもたちを育てていることに繋がっているのではないか、と。
授業がうまくやれていると感じるのは、子どもたちが授業中「ちゃんと」椅子に座って、教員の考えの範疇でグループワークや友達と聞きながら問題を解いているから。
もし全く椅子にも座らず、勝手気ままに自分の好きなことをしていたらそうとはいかない。
これをやろう、といってほんの少しでも嫌なことがあると「いやだ」といって違うことをやり始めてしまったら授業にならない。
ぼくは、自分の知らないところで「素直な子」を育てようとしつつ、自分が授業しやすいような「従順な子」を育ててしまっているのではないか。
そう考えるとなおさら恐ろしい。
「従順な子」を育てれば、それこそ戦時中のような思想のコントロールもできてしまう。
日本全国にそんなことをしたいと思って教育をしている先生はいないはずなのに、だ。
今回「批判的思考」という一つの観点だけでぐるぐる考えたけど、それは一つの観点に過ぎなくて、広く「教育」という視点でも考えられることだと思う。
ここまで書いて思うことが二つ。
一つは、教育って恐ろしい。でもやっぱり大切だな、ってこと。
間違ったことも教えられる。それで日本中の人をある一定の方向に導くこともできる。そんくらい大きな力があるってこと。
だから、常に「自分がやってることは正しいのか」を考えていないといけないんだな、と。
でもこれって学校教育だけでないな、と書きながら気づいた。
家庭でも同じことが言える。むしろ親が子に言うことのほうがその子の考え方には大きく影響が出ると思う。親が「とにかく何も考えずに親の言うことを聞いてさえいればいいのよ」と言って育てたなら、そりゃ批判的な思考なんて育つはずがない。
もう一つが、自分にできることってほんの小さいことしかないな、ということ。
結局一介の教員であるぼくは、こんな風に偉そうに日本の教育のことをそれこそ「批判」してみても明日からの学校でやることは何ら変わらない。すこーし自分の中での考え方は変わるくらい。
だから、今回こうしてこの「おどりば」という環境を使わせてもらって、自分ができるほんの小さな「アクション」を起こすことにした。正直、この記事をどれだけの人が見ているかわからないけど、この記事を通してほんの少しでも、自分が受けてきた、そしてこれから(すでにかもしれないけど)自分自身が親として子どもに教育していく立場として、「自分の今の子どもへのかかわりはこれでいいのか」「今の日本の教育はこれでいいのか」を俯瞰的にみて考える一つのきっかけになってくれたらと思う。それこそ「否定」じゃなくて「批判」的に。
こんばんは~読みました。
ここでの投稿は初になりますね、初めまして
私はメーカーのエンジニアですが、自分の仕事にこれで完璧満足と思ったことはないです、
守るべき納期、クオリティ、コストは、クリアしてますが、自分の図面がこれで完璧とは思ってないです!!
それは、自分がエンジニアとして常に成長し続けたいと思っているから
自分の仕事に満足した時点で成長が止まってしまうと思っています!
あえて批判という言葉を使いませんでしたが、こう考えて自分を省みる事と似ていると思いました。
ニルンさん!
はじめまして、コメントありがとうございます!
「これでいいのか?」という疑問を”そと”に向ければ「批判」に、”うち(自分)”に向ければ、自分の成長への立ち止まり、「省察」になるのですね!
そう考えると、どちらも「もっとよくなりたい(よくしたい)」という、現状に満足しないモチベーションがあってこそ、ということですね
また発見です❗
ありがとうございます!