ことばをしんじてつたえる

住人




ぼくたちは毎日、
たくさんの言葉にさらされて生きている。
「さらされて」なんて言っておいて、それを生み出したのはじぶんたちだと言うのだから、自分勝手なところが滑稽でいかにも人間らしい。

「言葉」というのは本来、じぶんの気持ちや今の感情など目にみえない部分を表して、伝えるためにあるはずであるから、その「相手」がいないと成り立たない。そして、「伝える」という気持ちがないと成り立たない。


毎日毎日毎日毎日毎日毎日
嫌というほど言葉にふれて、
嫌というほど頭の中に言葉を描いているにもかかわらず、
ぼくたちは言葉の使い方がへたくそだし、言葉の力についていまひとつわかっていないようだ。


たったひとことで、どれだけの力を与えることができるのか。

たったひとことで、どれだけ相手を苦しめることができるのか。


どうやらぼくたちはまだわかっていない。

だけどぼくたちは毎日言葉のことを考えつづけている。
なんて言ったら十分に伝わるだろうか、どう伝えたら傷つけずに済むだろうか、なにで伝えるのが一番この状況に合っているのか、なんて言ったら本心がばれずにじぶんの気持ちを消化できるだろうか、どう伝えたらだれにも悪く思われずにじぶんのおもうように状況を進められるだろうか、なにで伝えるのが一番楽でそしてそれがばれにくいのか。

簡単に言い切ってしまえば上に書いた思考の前半は善意、後半はただまっすぐな善意ではなさそうだ。まっすぐな悪意よりはましなのかもしれないけれど。


非常に残念なことに、ぼくたちの世界でまっすぐな善意だけをこめた言葉に出逢うのはすごくむずかしい。このむずかしいは、単純に回数が少ない、という意味だ。
「みんな心に闇がある」とか、「善意だけを持っている人なんていない」とか、「優しい言葉には必ず裏がある」と言う人が、正直ぼくたちの大半を占めていて、みんな言葉のことを、そして相手のことをあまり信用できないようだし、どうしてそう思うのか聞くとだいたい「自分もそうだから」と返ってくる。
なるほど。ぼくたちはそれぞれ、自信を持って言えるくらいには言葉についての考えがあるようだ。
「相手の言葉」は信じられないことがあるけれど、「自分の中の言葉に対する考え」は、それを相手に置き換えて納得できるほど信じているらしい。



ぼくのことを考えてくれていない言葉は、ぼくの心には届かない。
その言葉に対して、おそらく何か返答しているはずなので、ぼくには届いているのだとおもう。
だけどぼくの心には届かない。
すぐに忘れてしまうであろう言葉であるし、のこったとしても思い出すたびになんとも言えない気持ちになる言葉だろうとおもう。
自分の人生、自分の名誉、自分の利益、自分の立場
だけを考えて、決してぼくのためではなく、ただ口の方向だけをぼくに向けて放たれた言葉を受け取ったとき、なんとも言えない気持ちになる。
それを100%相手のために受け取れない申し訳なさと、心に届くことを拒否した罪悪感、寂しさ、なんて返そうという迷いと、少しの怒り、そしてその怒りを抱いてしまったことへの申し訳なさがぐわーーっときて、数秒後にはじぶんのした気の利かない返答に対する罪悪感が追加される。

ぼくのことを考えてくれていない言葉は、一方通行だ。
なんとか話の方向を相互通行にもっていけないかと検討しても、それができなくてまた落ち込む。
だから心には届かない。
初めにかいたように、言葉は相手がいて成り立つものであるから、
これはぼくから相手への一方通行。
それがわかったときの寂しさったらない。
寂しさ、だけでは表しきれないのだけど、だけどとんでもなく寂しい。

じぶんからの一方通行だからって、
怒りを感じるなんて、
なんとじぶん勝手なのだろうか。
だからといって「人間はみんな自分勝手」という言葉もまた、ぼくの心には届かないのだけど。



自覚して、罪悪感をもってじぶんでなおすことが
ぼくにできるだろうか。
まっすぐな善意だけを込めた言葉を、
100%相手をおもった言葉を、
毎日毎日毎日毎日届けつづけることが
ぼくにできるだろうか。

人間が、人間の使う言葉が
どんなに滑稽で、どんなに愚かでも、
ぼくはにんげんを信じている。
にんげんの使うことばを信じている。
ひとつの意味だけで終わらない
にんげんを、ことばを、
しんじている。
これはぼくの願望でしかないけれど、
このがんぼうをしんじつづける。

せっかく手に入れたことばを
ぼくはこれからもずっとずっと大切に
しんじてつたえつづけたいとおもうのだ。



ちい

人と話すのが好きです!その人のことを考えるのはもっと好きです。自分の”好き”になりたい、と思っています。

プロフィール

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