自分の言葉って

住人

2, 3月は陸上の世界では、大きなマラソンの大会が相次いで開催される時期だ。
季節柄、マラソンの好タイムが期待できるから。

先日の男子のびわ湖毎日マラソンでも、富士通の鈴木健吾選手が日本記録を大幅に塗り替えて、日本人初の2時間4分台を出して話題になった。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210228/k10012889831000.html

この翌日、ぼく自身が陸上好きなこともあって、こどもたちにこんな話をした。





先日、男子のマラソンで日本記録が出た。日本人初の2時間4分台という素晴らしい記録で。

でも、実は男子のマラソンは2002年に高岡さんという人が2時間6分台の日本記録を作ってから16年間、ずっと破られない時期があった。それが2018年に設楽さんという人が日本記録を5秒だけ更新したら、その後たったの2年ちょっとで日本記録が3回も更新されて、記録自体も1分以上も早くなった。

これは陸上の世界ではよくあることで、100mで世界で初めて10秒台を切ったのが1983年(1968年にも一度切っているらしいが高地のため参考的な扱いらしい)、そこから1980年代は続々と9秒台を走る選手が続出する。

これは日本でも同じで、ずっと日本人は10秒を切れない、というジンクスみたいなのがあって、1998年に10秒00が出てからずっと日本記録が更新されなかった。それが2017年に桐生さんという人が日本人で初めて9秒台を出してからこの4年で4人(山縣さんは正確には9秒997で10秒という扱いらしいが)の人が9秒台を出している。




これらの事実から何が言えるか。





人間って案外単純なもので、「できない」「できない」と言われてると自分もできない気がしてくるし、逆に誰かが「できた」ら、「あ、自分もできるかも」と思って本当にできちゃうってことがあるのかもしれないね~





と。



この話が正しいか、教育的にいいかどうかについては、ぜひいろんな人の意見を聞きたいけど、今はそこは横において。


この話はこどもたちにはここまでしか話していないが、この話の裏にはもっと根本的に大事なことがあると思っている。それは

「やらないとそもそもできない」

ということ。


上の、記録を出した人は、全員、当たり前だがそれ相応な、血のにじむような努力をしている、ということが前提としてある、ということ。



でも、自分はそのことをこどもたちには伝えなかった。それは意図的なわけではなかったけど。


今こうして文章にしながら考えると、ぼく自身の性格が出ているのかなと思う。

つまり、それは「頑張ることは正義か、否か」論






とかく中学校では、部活動でもそうだがよく言われるのが「何かに打ち込む、つまり『頑張る』ことができないと社会でもいざという時に『頑張れない』」といったりする。

わかる。だって自分もそういわれて今の今まで生活してきたし、それが当てはまると思うような、頑張るべき場面もあったような気もするから。


でも、同時に


アイヌの人は「頑張る」という言葉を使うと筋肉が緊張して力が出せないから使わないという話(ほんとかウソかわからないけど)


自分が尊敬する人から聞いた「『頑張る』という言葉は世界大戦のときに、自分の生死がかかった場面で生き延びるために生まれた言葉だ」という話



そんな話なんかを聞いたりすると、「『頑張る』って必要あるの?」と、問いかける自分もいる。







つまり、今こうして自分の言ったことを振り返って考えてみると自分の傾向が見えてくる。


「誰かができたら自分も『できるかも』と思う」
というのは、
自分の中で納得がいっているから話せる。


「頑張ることが必要だ」
というのは、
それはそうなんだけど、でも全員がそうすべきなのか、というと自信がないし…とかなんとか考えると…
という状態だから、話すのが少し憚られる。





そう考えると、結局、自分がほかの人に伝える言葉って、自分の経験を通して納得できたことしか言えないのではないか(もちろん、言葉としては言えるけど、なんというか…)

それはつまり経験絶対主義で、経験(読書や人から聞いた話でも)がないとなにも言えないってことじゃないか、とさえ思えてくる。




教育だけじゃないけど、なんでも人に思いを伝える、人を「育てる」時の言葉って、すごく主観的で曖昧で怖いな、

と、自分の言動を顧みながら思う。





あかっぱ

よく中学生に間違われます。「見た目はこども、中身もこども」な25歳です。

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