こころのよりどころ

住人

他のひとが言っていて、はっとしたが、このおどりばで文章を書かせてもらってもう2年も経つらしい。なんと時間の経つことが早いことか…。

そんなこんななので、昔似たようなことを書いた気もするが…と思いつつ、筆ならぬ、キーボードを打つ手を進める。

宗教について自分は詳しいわけではないが、イスラム教の国に滞在していて、毎日の礼拝や食事制限などを身近に感じる中で、「宗教を信じる」ということの根底にはなにがあるのか、と考えて、ふっと思ったことがある。

これは宗教が

「こころのよりどころ」になる、

ということ。

こんなことを言ったら怒られるだろうことを覚悟して言うと、毎日礼拝をして、食事制限をしても正直、本当にご加護があるかどうかはわからない。(どんな宗教でも同じだと思う。)でも、そうやって「信じる」ことで、「自分はこれだけのことをしているんだから」とか「神様は見てくれている」といった「思い」や「信念」「思想」が生まれ、「自分」という軸が保たれる、という側面が少なからずあるのではないか、と個人的には思っている。そして、そうやって「こころのよりどころ」がある人は、心が安定する、ということが確かにある気がする。

さて、なんでこんな話をしたかというと、同じことが「学校」でもあるな、と最近思ったから。

「学校」というか「部活」だが。

今、全国の運動部の中高生はまさに「青春真っただ中」にある。特に3年生にとっては”最後の大会” ”最後のみんなとできる試合”、と並々ならぬ思いをもって臨んでいる子も少なくないと思う。

そんなこどもたちに対する指導でよく耳にするのが、例えば宿題をやってない子に「日常生活がそんなだから、試合で負けるんだ」「だから、そういう大事なところでエラーをするんだ」というような指導者の言葉だ。宿題だけでなく、掃除や発言など、因果関係をつけようと思えば何でもつけられる。

実際、言っている指導者の方はそれを事実だと思って言っているのも伝わってくる。でも、ぼくはどうしてもそういうことを言いたくないな、とずっと思ってきた。事実、本当にそことそこがつながるのか?とこどものころから疑問に思ってきたから。

でも、若輩ながらも教師、という立場でかかわる中で、実際、そういう「日常生活=部活動」という指導をして強くなっている部があることを目の当たりにしている。

そしてふっと思った。

「これはこどもに『こころのよりどころ』を作っていることなのかもと。」

「日常生活が部活動に現れる、と伝える」

→「挨拶などを含めた日常生活をしっかりする」

→「自分たちは先生の言う『大事なこと』をしっかり守れている」

→「これだけのことをしているんだから勝てるに違いない」

浅はかな考えかもしれない。でも、先ほどの宗教と同じくして「こころのよりどころがある」から、「メンタル」から強いチームができる、そんなことがあるような気がしてしまう…。

なんでもそうだと思うが、「ぼくはこれでいいんだ」「私はこういう人だ」「自分をわかってくれる人がいる」こうした「自分」という軸を保つ「こころのよりどころ」は、どんな形であれ大切なものだと思う。

だから、先の部活でも、宗教でも、自己啓発でも、”いい”、”悪い”じゃなくて。自分で自分を保つために、こころのよりどころを持てることが、今の世の中生きやすくするためには必要なのかな、なんて思ってしまう。

働き始めて3年目。3年目、というのはいろいろ考えてしまう時らしい。

ぼくにとっての「自分」という軸はなんなのか、考えずにはいられない。

あかっぱ

よく中学生に間違われます。「見た目はこども、中身もこども」な25歳です。

プロフィール

関連記事一覧

  1. この記事へのコメントはありません。