マッシヴ・アタック、レディオヘッドのちボアダムス
「最近、マッシヴ・アタック聴いてる」
彼女がカウンター席の隣で呟いた。わたしはノンアルコールビールをごくごくしてから「ふうん」と相槌を。≪今さらですか≫とは言わずに。店内にはレディオヘッドが流れている。トム・ヨークの歌声がせつなみ。哀愁と死にたくなりたさが同居。それでいて、たくましく生きられそうな、そんな気分にもなる。彼女はジーマを飲む。つまみのミックスナッツを口に運ぶ。それを咀嚼してから「よしのさんは、最初からマッシヴ・アタック聴けたの?」と失礼な質問を。わたしはムッとしたが、でも正直、聴けるようになったのは42歳になった3年くらい前のことが現実だったから、偉そうな態度は取れない。
「20代の頃、音楽雑誌の編集してたんだけど、レコード会社の人とお付き合いすることがあって、その人がマッシヴ・アタック好きで。フジロックに出るってコーフンしてたけど、わたしはホントのところ、何にコーフンするのか、わからなかったなあ。若かったから」
若さは罪だ。若さは無知だ。それでも若さは才能だ。わたしにも若い頃はあって、恋を満喫し恋に破れ、仕事に不満を言って、もらったお金は残らずに遣った。
これを読んでいるあなたは今、何歳ですか。若くても、そのうちわかるよ。≪年齢なんか関係ない≫って。やりたいことを持っている人の方が勝ちか?! 恋人がいる人の方が満たされているか?! お金はあった分だけ幸せになれるのか?! それはいずれわかる。
まだわたしは45歳だし、人生100年時代なんて嘘だけど、もう少しは生きるんだと思う。だから知らないことはまだたくさんあるんだ。
これをどこで読んでいますか。家? 車? カフェ? 恋人のおうち? 家族と一緒に? どこだって構わない。ここに真実は書いていないからもう読まなくていいよ。
言えるのは、もしかしたら明日は死ぬかもしれない≪わたし≫だということ。≪わたし≫はあなたで、≪あなた≫はわたし。なので、今したいことをすると決めたんだ。およそ2ヶ月先のおどりばの記事を書くことに。
レディオヘッドの『OKコンピューター』がわたしの青い春における永遠の名盤で、それを越えるアルバムはない。だから怖くて、それ以降のレディオヘッドは聴けていなかった。今、流れている曲はレディオヘッドに間違いないが、わたしの知らないレディオヘッド。彼女に訊くが「よしのさんが知らないんなら知るはずがないよ」とやさしく突き返された。それで店主の女性に訊く。「『ヘイル・トゥ・ザ・シーフ』っていう6枚目のアルバムで、リリースは2003年だったと思います」と丁寧に伝えてくれた。演奏がダイナミックで心地良く、どこかに影を落とす音に酔ったので、生ビールを頼んだ。「よしのさん、車でしょ?!」と彼女は目を丸くしたが、駐車場にそれを置いて歩いて帰ることを告げると「お金がもったいない」とひとり言を言うので「わたしのお金だから勝手だよ」と言いそうになったが、ケンカになるのは嫌なので一旦やめた。
なぜこんなに勢い余って、早くに原稿をアップロードしたがるんだろうか、自分でもわからない。書くことに終わりはないから予約投稿して強制終了。それで満足、自己が満足。≪書きたい!≫を逃したくないから、捕まえて書いてしまう。そんな理由かもしれない。
最近、ボアダムスを聴けるようになった。25年前には想像もつかなかったこと。感性が追いついたのとは違う。圧倒的に芸術/ARTしていて参りましたって。憧れる。そんな気持ちに、力尽くかつ強引にされて、悔しくもないよ。ただただカッコいいなあってうらやましく。ボアダムスみたいになりたい。自由に、不自由に、目一杯音楽を叫んでいる。いや音楽という範疇ではない。やっぱり芸術だしARTだし、それをも凌駕する。ボアダムスですらない。わたしもなかがわよしのを越えて、なかがわよしのではない境域に踏み込みたいな。苦しいんだろうな、孤独だろうな。覚悟がいるに違いはない。小説で人生を棒に振っても構わないのか。その覚悟はあるのか?
店を出ると、怒りに任せて、わたしは彼女をぶん殴っていた。そして放置。一階の古本屋の前で地べたに倒れる彼女を助ける気にはならなかった。なぜ苛々してしまったのか、自分でも不明。逃げるようにその場所をあとに。反社的事務所の前を歩くと警察官が立っていた。右拳が痛いのを我慢して「こんばんは」などと愛想を振りまいて、やり過ごす。善光寺に向かう坂をぐいぐい上る。明日GEOで店で聴いたレディオヘッドを借りようと思った。でも、もしかしたら、牢屋に入れられているかもしれないと大袈裟に。彼女が死んでいないことを祈って、ゼエゼエ歩いた、老い。
この記事へのコメントはありません。