悔しさを忘れちゃった
いつからだろう。
悔しい、と思うことを忘れてしまった。
忘れた、という表現が正しいのかはわからないけれど、やり方がわからなくなってしまったからきっと、忘れてしまった。
悔しさをバネにして頑張ることに疲れて死にたくなったことがあるからかもしれない。
努力は必ず報われるという考えを、捨てたのはいつからだろう。パーソナルなことを言えば、一度仕事をやめた時からかもしれない。辞める時は辞めたくて辞めたわけじゃないし、辞めざるを得ない状況に自分から持ち込んだわけじゃなくて、とても悔しかった、これを人のせい、というならもしかすれば、そうなのかもしれない。けど、世界で生きていく時にはどうしても他人の力が思っている以上に作用してしまうことは多にしてあって、それを否定することもまたできないと思っている。
全ては自分次第、いやそうなんだけれど、そこに乖離して他人のパワーはしっかりと重くのしかかって来ることもある。それを打ち砕かれるか否かで、強い弱いと判断されることにも嫌気はさすけれど、ともかく自分はその時、ぽきっと心の芯が折れてしまった。
頑張らなくても、生きていけるんだ。
よくも悪くも、そう感じることに至った。色々なサービス・補償が充実している国なんだと改めて感じた。そして自分がこれから取りうる選択肢はこんなにも広がっていて、かつとっても狭められていることも感じた。経験、それがものをいうのはどこに行っても同じで、1つのことを貫くことの意味のなさもなんとなく知ってしまった。だからと言って、器用に何でもこなしたところで、職にできることを身につけないと、社会においては相手にされない痛点をピンポイントで針で刺された感覚にも陥った。多分、その辺から、努力に対して思い切り舵を切ることを辞めてしまった。
いい意味で、自分の趣味の延長線上に仕事を置ければそれはとっても極めることができるのだと感じていたけれど、そこには必ず目標や達成するべき数字があって、それに対して自分以外の強力なΩがあるのだとすれば、それを回避することがとにかく”いい人生”においては大切で、でもそれはある程度の妥協とやり過ごしを身につければ減る抵抗でもあって、その葛藤をずっとしているうちに、純粋に物事に取り組むことができなくなった。
今も変わらずできていない。
希望も、夢もなりたい自分もそこにあるけれど、そこに至るまでの努力の仕方を忘れてしまっている。
頑張るための理由がないと、頑張れないね。それを弱いと言って仕舞えば、そうなのかもしれない。けれど、それでもまだもがこうという意思は確固たるらしくて、頑張れない自分にはとても気持ち悪さを感じる。でも、同時に疲れてしまう自分もいて、とてもやるせない。やるせない想いを燻らせて昇華したところで、出てくるのは悪い数値と死へのカウントダウン。あれやこれやとしている内に鼓動の限界数値が迫ってくるのは誰しも同じだから、ある意味平等なスタートラインに立っているはずなのに、なかなかスタートをきれないじぶんがいて、スタートライン10なんてまだまだ遠かったのかもしれない。
忘れた、というのだから、体か心のどちらかのどこかで、思い出せる気もしているから、
少し苦手な、「信じ続ける」をやって、もう少し模索して見ようと思う。焦りは禁物、急がば回れ。困ったり焦ったりしそうな時ほど、目先のタスクや1つの出来事に大切に向き合うことが大切だと思うから、今はそれらを意識して生きていくほかない。そんなことを思って、今日もまた、今日の自分を、「おどりば」からスタートさせている。いつか、この忘れ物が、どこかで見つかることを信じてる。
t_tatsuさん
2号室 のぶさんです。
自分ごととして、拝読しました。
自分の場合、悔しさの代わりに出てくる考えが「他力本願」です。
「あの人は、あれができるから、悔しい」ではなく、
「あの人は、あれができるから、託そう」ですね。
自分も信じ続けることが、性に合わないので、乗換しまくり人生ですが、
何かひとつ、信じ続けてみようと思います。
ありがとうございます。
のぶさん
お読みいただきありがとうございます
そしてコメント、ありがとうございます。
その、託す、ということに関しては
自分はなかなか性分上できてなくて
しなくてはならないなあと痛感してる
ところでもあります…
一つ、信じるものをもって
突き進むことはきっと原動力になるとは思います。
今はそれを忘れてしまっていますが
自分もなんとか見つけて頑張ろと思います。
☺️