常に更新可能な「私」は個性のハコを超えていく

住人

3年前からたくさんのことを考えるようになった。
病気が治るかもしれない、と言われたその日から。

これで好きなところに行かれる。好きな場所で好きなことができる。
カテーテル感染におびえることなく、40度以上の熱に怖がることなく。
死にかけることもなくなる。
海にも、温泉にも、プールにだって入れる。
体を鍛えれば、ちゃんと身になる。
身長はもう伸びないだろうけど、体重は正常BMIになっていくだろう。
仕事もバリバリやって、魅力的な人になって、素敵な人と出会って結婚して。

目の前の見えない壁が扉の形に変わっていった。

喜ばしいことじゃないか。
たくさんの制限や、諦めから解放される。

だけど、「治るかもしれない」」と言われて少し経ってから、「あれ?自分は、この病気を抜いたら、なんの価値もないじゃないか」と思うようになった。

扉はその形のままだった。よく見たら取っ手もドアノブもない。

自分を主張するために、自分を守るために、病気は口実になっていた。
障がいの分野でよく言われる「障がいはあなたの大事な個性です」という言葉。
聞いた時から長らく違和感を抱いていた。
僕が認めたくない自分のことを、無理やり「認めなさい」と言われた気がしたからだ。
自分の“嫌い”を認めてくれない言葉だった。
自分にとってアイデンティティになっていた“個性”は檻のようなハコだった。

僕にとって自分の病気は、死神だった。
普段、人ごみに混ざりながら、それでもこっちを凝視し続けている。
ちょっと自分がつまずくと、すかさず大きな鎌の刃をのど元にあててくる。
そのたびにゾワッと、ヒヤリとする。
でもそれは嫌な感覚ではなかった。
その理由が分かった。
死神が隣にいる自分は一人ではなかったのだ。
だから、病気(=死神)というカテゴリから強制的に排されることがひどく不安だったのだ。
病気は孤独から自分を解放してくれるものだったのだ。

社会に対して、制度のカイゼンを求めたりや周知をしていくうちに、病気=自分になっていた。
僕の主軸は“病気”だった。

マイノリティのアイデンティティ化


“集団に居場所を見つけられない孤独や、将来に対する不確実性などによって生まれる恐怖の感情から解放されたいと願うとき。「…」てっとり早い解決法を「自分が来たところ」に求めて”しまうようだ。

(『14歳からの個人主義』P129より)

エーリッヒ・フロムがこれを「退行的解決法」と批判していたのを知ったのはずいぶん後のこと。

必死に好きなこと、やりたいことを探した。
体が不自由でも、自由でも、自分の好きなこと、やりたいこと見つけて伸ばしていくのが今の世の中のセオリーだと知ったからだ。
かつて自分にも何かそういうものがあったはずだった。

道端のアリを追いかけては昆虫博士になりたがったり、初めて小説を書いた時には小説家になりたかった。(好きなこと、やりたいことが職業に結び付くのは今だったら違和感ものだけど、当時は疑いもしなかった。「あなたの夢は何ですか?」は職業を聞かれていると錯覚してたのかもしれないし、出題する側もその意図だったと思う)

コロナ前だったので、イベントはオフラインがほとんど。出られる地域のイベントには片っ端から出た。
それでも答えは出ないままだった。

「自分には生きている価値はないのかもしれない」

よぎったのは1回や2回ではない。

気持ちに反比例するように、焦れば焦るほどに、内側からコンコンと言葉が湧き出た。
noteを始めたとき、1日に2回更新していたこともあった。
いくつかの団体やチームに一時的に所属して、活動を手伝ったこともあった。
結果的にほとんどうまくいかなかった。
そのたびに自分を責めた。
もう2度と何もやるもんかと何度も誓った。

「さらみさんは、自分を受け入れてくれるところを一生探し続けるんだね」

離れていったかつての仲間が最後のLINEで言い放った言葉は、机に刻まれた彫刻刀の文字のように深く鋭かった。

結局、何一つ答えは出なかった。

マイノリティにすがっていた自分自身がたまらなく大嫌いだったが、「自分の皮膚が気に食わない」といっても無理やり引っぺがすことはできないように、ひどく癒着していた。

——————光陰矢の如し。3年が経過した。

21:30に連絡が来て、翌朝上京。小腸移植へ向かった。

手術前日。個室で緊張していると、スマホが鳴った。
この2年ぐらい、何回もイベントに参加させてもらった高校生からだった。
フェイスブックに「明日手術です」と書いたのを見て電話をくれたのだった。

用件は「落ち着いたら、僕の秘書やってください」だった。
また何を言ってるかこやつは、と思った。
ぶっ飛んでる彼だったが、不思議な魅力があった。
「ああ、いいよ。落ち着いたらね」と2つ返事で承諾した。

7月。
退院してから1か月。まだまだ体調は安定しなかったし、家でのケアも多かった。
そんななか、電話がかかってきた。
「落ち着きました?」
一瞬なんのことだか分からなかった。
なんだかんだで、清走中を手伝うことになった。

併せて、おどりばも書いてきた。
長野のマイノリティのためのフリーペーパーhanpoも書いてきたり、ちょっと事務のお手伝いもしている。
NPOや地域活動を取材するライターの会議にも月に一度参加している。
お世話になっている上田の旅館のシェフは、料理を冷凍にしてわざわざ送ってくれた。
オンラインで哲学カフェにも参加したり、主催したり。いつの間にか仲間ができた。そのうちの何人かとお会いしたり、新しい出会いもあった。

3年間、がむしゃらに動いた時に知り合えた人たちと、今もアクセスしている。

やりたいこと、できること、好きなことが少しずつ増えてきた。
空っぽだった器が、少しずつ満たされ、更新されていく。

昭和の大批評家・小林秀雄は個性についてかつてこんな風に語っていた

「普段私たちが使う“個性”とはオリジナリティ、生得的・偶然的なこと。つまり、「変わってる」ということ。変わってることは決して自慢にはならない。故にオリジナリティを元にした「個性を尊重せよ」というのは間違っている。オリジナリティを克服した先に、本当のスペシャリティとしての個性がある。クセ、考え方、感情を自己批判せよ」

自分の個性を磨けるのは自分以外ないのだと。

ノーベル賞を受賞した経済学者 アマルティア・センは著書「アイデンティティと暴力:運命は幻想である」で、『アイデンティティの複数性』という概念を記している。

単一のもとを思われがちなアイデンティティを複数持ち、使い分けることを主張している。それは個人でも、言語でも、宗教性、国籍、職業、思想など大変多岐にわたる。

一つに絞ることはないんだ、と。

生得的な、偶然的な個性のハコを、残したり、壊したり、ゆがませたりしながら、常につくりだしたり、超えたり、更新していく。
「生きる価値がない」
そう思うことを悪いとは言わないし、思えない。
苦しかったが、あの経緯は必要だったと後から思えるから。

今は「価値」という尺度そのものでしか測れないということ、それ自体に重きを置かなくなった。
尺度は常に複数存在し、更新し続けているのだから。
いくら複数の「価値」があろうと、単一の「価値」という概念から逸脱していない。
いつまで経っても「価値」の手の平からでず、翻弄されっぱなしだ。
判断基準は物差しではない。
曲線であったり、長くなったり短くなったり、目盛りすらついていないものもある。
比較対象も自分であったり、他者であったり、社会であったり、たくさんあっていい。
どこに重きをおこうとそれは良いのだと。

————–振り向いたら、扉は遥か後ろにあった。
そして、いつの間にか、死神の視線を感じなくなっていた。


今日も街を歩こう。
お気に入りのセットアップを身にまとって。

sarami

生き意地の汚い人生を 送っています。

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