10回限りの生きなおし
僕のライフは、残り10。
そう言われた時、何をしようか?
9年ともう少し前のあの日、僕は某国営放送で、失われたまちを題材にしたアニメーションを見た。
そのアニメーションは、夜中の4時から朝の番組に変わる折に必ず流れていて、それは夏の暑い日の夜で、アルバイトから帰ってぐうたらしててはいつもそんな時間になっていたのだけれど。あの、とても人ごとではない大きな出来事に、命の感覚さえも揺さぶられた大きな出来事、311の日、消えてしまった命が、なんだか、そのアニメーションの中で訴えかけていたような気がした。
小さい頃からゲームは好きで、二次元の世界に入り浸っては、現実の鬱陶しさを破壊するためにいつも寂寞をそこに求めていた。何回人を殺しても、自分hがダメだった時に死を選んでも、何をやっても、その前の時点でセーブできて、間違えたらトライアンドエラーを何回繰り返しても叱責されることもなければ、ノルマもない世界観
なんて理想郷なのだろうと、思ったけれど、
ふと、ここに”作り出された”魂たちは、本当はどこかで生きてるのではないか?と、まじめに何回も考えることが増えた。
1日が終わって眠る前、人は生き終わった後にどこかへ行ってしまうのだろうか、何億年後のこの星の命がどのようになるだろうか、なんてゆく末を案じては動悸で眠れなくなる日々の中で、ふと、ゲームの世界のものたちへ、想いを馳せることがとても多かった。それは、漫画などの創作物でも同じで、ここに描き出されている者たちを思うと、なんだか不思議と頑張れたりすることもあって。
そして、ふと、現実を見て、あれ、セーブできてない、記憶に偏りがある、失敗が直っていない、なんてことにまた気がついて、絶望するのだけれど。
・・・もし、自分のライフが残り10だったら、何をするか。それは、一生的なライフではなくて、ある程度の時間ー某ジブリの神隠しで描かれていたような、時間がここよりももっと早く流れる中でーそして、10度までは生き返れるとして、なにをやろうとするだろう。
出発点が変えられないのであれば、もうこれからすることにしか作用しないわけで、これをやったら怒られる、これをやったらどうなってしまうんだろう、というワクワクを求めて行動するのかもしれない。あるいは、出発点を変えられるのだとすれば、過去の分岐点をいくらか試してみて、どうなっていたのか知りに行くのもありかもしれない。
またあるいは、HPが残り10なのだとしたら、今の命を振り絞って、大切な人にありったけの想いと行動を示すことは必然として、なしえなかった自分の夢をなんとか形にしようともするだろう。でも、やっぱりぶち当たってしまうのは、ここは現実の世界であって、セーブしながら進むことはできずに、繰り返される命の補償もない、ということを、やっぱりみてしまって今日も、暖かいコーヒーがお腹の中へと落っこちていく隙間に、不安の調味料が足されていってしまうの。
やっぱり、一期一会な全ての出会いや感覚に、感謝しながら生きてくっきゃないのだけれど、
ライフ10を考える間も無くまた明日がやってきて、11になる。
10の日はまた来月も来年も変わらずやってくるから、やっぱり、今を必死に生きようね、って自問自答してる最近の僕の、おどりば。ライフレベル10への私の奮闘記。
この記事へのコメントはありません。