人の需要と供給
先日、とあるcafeに入った。
というのも、そのcafeに行くことはもともとの目的ではなかった。
その近くの古民家cafeでピザを食べようと思っていったのに定休日だったために寄ったのだ。
お店自体は、普通の民家を改築したもので、内装は普通にきれい。
メニューは、パンとドリンク。とってもシンプル。
パンもそのお店で作っているわけではなくて、近くのパン屋で作っているものを間借り的に売っている感じ。
そこで、「せっかくだし」程度の感覚で、パンを2つとカフェオレを頼んで、本を読むことに。
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少しするとパンとカフェオレが出てきた。
カフェオレを一口。
正直、特別においしいわけではなく、普通の、でも安定した味。
パンも、おいしいにはおいしいが、正直値段は少し高く、こんなもんかな、という感じ。
待ちながら、そして食べながら一人で店を切り持っている店長さんと話をした。
はじめは「どこから来たんですか?」「へー、近くですね」「先生なんですか」と共通点や、お店の話などで盛り上がった。とはいえ、ずっと話すわけではなく、途中から黙々と読書。
店員さんも特段、干渉をしてくるわけでもなくて。
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ふっと気づいた。
自分以外、誰もお店に来ない。
もちろんたまたまその日はお客さんが少なかっただけというのもあるとは思う。
しかし、正直、繁盛しているとは思えなかった。
店長さんに「何時までやっているんですか?」と聞くと、「19時まで」とのこと。
そんなこともあって、結局そのまま2時間以上読書に耽ってしまった。
そこで思う。
正直、スタバやコメダ珈琲といったチェーンのお店の方が確実にお客はいる。
そして、同じように2時間という時間を過ごすこともできるだろう。
払った金額的にも、スタバに行っても同じくらいになるだろう。
なんならスタバの季節限定のなんとかフラペチーノを飲んだ方がおいしかったかもしれない。
しかし、そのcafeで過ごした時間を全く後悔していなかった。「今日はここでよかったな」と思う自分がいた。
なぜだろう?
スタバなら、「勉強をしている学生」「若い兄ちゃんや姉ちゃん」「資格の勉強をしている社会人」
そんな人たちでいっぱいで、どこか「時間の流れが速い」
もちろんそれが必要な時もある。
僕の場合、久しぶりに会う友達とはスタバで話をするし、友達との予定までの時間つぶしで使うこともある。
でも、それはどこか「気を張っている」感が否めない。
つまり、何が言いたいか。
人がいないcafeには、それなりの、いや人がいないからこその「価値」がある。
ふと、このcafeと自分を照らし合わせていたのだろう。
僕の場合、教員として、正直ゆるい。いろんなことがゆるいし、ルーズだ。
部活動でも、指導力があるわけではないから、いわゆる「強いチームを作る」ことができない。
授業でも、公開授業をしても「いい授業」ができるわけでもない。
逆に、こどもたちを惹きつける話ができたり、笑わせたり、部活動で子供たちのやる気に火をつけて「いいチーム」を作ったり、いわゆる「すごい授業」をしたり、そんな先生への憧れと、劣等感があった。
もちろん、そんなのは一面的で、それだけではない、と頭ではわかっている。
「自分にも自分なりの良さがある」と。
しかし、違ったのだ。
それまでは、「人とは違ったところで、ほかの人に上回る部分が自分にもある」と思っていた。
でも、そうじゃないのかもしれない。
「スタバやコメダ珈琲と比べたら確実に負けている」のに、なぜか「負けていない」このcafeのように。
数はもちろん少ないのかもしれない。
でも、「劣っている」から「需要が0」というわけではないのだろう。
だったら逆に、その「0でない需要」のために、必要な「供給」を与えることもまた価値があるのかもしれない。
「そのcafeに行きたい」という目的ではないかもしれない。
たまたまふらっと入っただけかもしれない。
でも、そんなお客さんでも別に構わない。
肩ひじ張らない、欲張らない、とあるcafeのような生き方もまたあるのだろうと思う。
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