12年前の今日

住人

12年前の今日

明日が、そんなことになるとは思ってなかった。誰しもが。明日を、渇望するような時代でもなかったのかもしれないけれど、その中でも、明日を夢見る

そんな時代の1つだったようにも思える。少なくとも僕にとっても、そのような時代の1つだった。その頃は、大学に入る年だった。

まだ、山梨県立図書館が、古い建物の方にあった頃だった。毎日が勉強の日々で、毎日が明日への希望で溢れてた。何もかもが初めてのことばかりで、でも、その中で自分が持っている自我を少しでも、まわりに誇示したいようないわゆる、若気の至りを持っていたような時でもあった。何故、そこまで他人を意識した生活であったのか。それについては、私たちの代から下の代、つまり、承認欲求こそ人生であるという一面をわたしたちも、兼ね備えているからで他ならない。それは、揶揄でも何でもなく、かつて作り上げられた、日本の閉塞感、時代錯誤感を、私たちなりに解釈しての行動である。至極当然のことで、それについて上の世代が何もいう資格はないし、それをまたうけいれろとも思わない。けれども、さまざまな【自由】が認められる現代においては、そんな事ごとが、皮肉にも否定されているような気がしてならない。

その当時は、そんなこと思っていなかったけれども、大人、の端くれを担う世代になってきてから、少しずつそんなことを思うようになってしまった。

その日は、本当にたいけんしたことのなかった揺れがやってきて、テレビで流れる映像は、嘘のようなことばかりで、そんな中、両親と共に、大学でのアパート探しに明け暮れていて

どこか、そんなことをしていていいのだろうか、と思う気持ちも反面、それをしないと先に進まないからな、と思って、忸怩たる思いで毎日をすごしていた。そんなとき、仕事の休みの合間を縫って、父は私のために動いてくれていた。自分のことを、いつでも、誇りに思っていると励ましてくれて。直接は言わないけれど、いつでも母からその言葉を聞くたびに、自分以外の親戚の凄さと、自分の、初めての物事に対する発達障害並みの慣れなさに悲観しては、コツコツと重ねる努力こそが、物事を切り開く道であると、何回も思い直すこととなった。そんな毎日の積み重ねで、なんとか大学入学を果たして、気づけば、もう卒業してから、6年が経とうとしている。

入学してから12年。つまり6年いたわけだけれども、その後の6年といえば、なんだか、大学生の頃に比べて初めて、のことに対する驚きも希望も、あまりもたなくなったようなきもする。本当ならば、経験したくなかったようなこともたくさんしてきて、もっと、父と見たかった景色もあってそれを、今では、踏み締めて前を向こうと頑張っている。

人生は何、としっかり定義することはそれぞれの物語によって違うけれど、少なくとも、私の人生では、【想】ということ、その想いが全てを変えることができる、と信じたい、というのが1つ、あるのかもしれないと思っている。いつまでも、甘い考え方を捨てきれずもいるのだけれど、その強い想いが、自分の人生を、自分に関わる人生たちを、たくさんと変えた事例を見てきているし、そう信じている。人は、考えていることの力が300倍あるだなんていう噂もあって(専ら噂は好きではないのだけれど)言葉に出せば、なし得なくとも方向はそちらに向くから、言葉や見たくれだけはそっちがわを向いておこう、というのが私のmottoになりつつある。

12年前の今日、明日がどのようなことになるかわからなくて、明日の夜には、絶望が本当の意味で襲っていた。その頃を思い出して、胸が痛くなった。

けれど、そこから今に至るまでに、人々は本当に色々なことを乗り越え、乗り越えようとしてきたその想いに、本当に心を打たれる。

たった何分かで、立場も生死も変わってしまうような、双刃の刹那の中で、改めて生かされていることを強く、思う12年の歳月は、大きな、大きな意味を持つ、そんなふうに思う。

今月は、父母の結婚記念日もあって。もう、二人のじかんが、生きるというこの地平線上では動かなくなってしまているのだけれど、共時的につながったその世界では、二人の時間はずっと動き続けている。

そのとき、失われた尊い命を、遠く離れたここでも、強く感じながら、この月の、この日に関しては抱いてもいいよね。

10号室   t tatsuより。

t tatsu

山梨在住。あっちいったりこっちいったり、浮き沈みの激しい人生。音楽、本、映画やことばを好みます。多趣味多忙が代名詞。 …「あたりまえ」のことは、そうでもない...

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