違和感と 違和感のようなもの

住人

違和感

違和感と違和感と呼ばれるようなもの、について文章を書こうと思ったら、空気や感じ方について考えていければと思った。
そこから、そういえば発達障がいについてちゃんと?がっつり?考えたりまとめたりということをしていなかったので、これを雑記にもそもそ書いてみる。

・山本七平の「空気の研究」
・エディス シェファーの「アスペルガー医師とナチス~発達障害の一つの起源~」
という当たりから発達障がいの起源論からあたってみようかとも思ったが、前に買った「空気の研究」はこの部屋の一体どこにいったのかしら。まぁいいや。
発達障がいについての言説として、「昔も一定数いたけど、発見されなかった。空気や環境がよくも悪くも「そういうひと」とみていたことからここまで大きな問題として出てこなかった、あるいは名前がつかなったというもの」がある。

コミュニケーション過剰社会になったが故に多く発見されてしまい、なんらかの医学的あるいは社会心理学アプローチが必要になってきたのだとしたら、コミュニケーション過剰社会からの抜け道がどこかにあるはず。
詩のような個人のアート作品であったり、森に一人で出かけたり。
それが趣味を持とう、というムーブにつながるのかもしれない。
コミュニケーション過剰社会は、実は”つながり”の反面でもある。

人がそこにいる限りにおいて、つながりはコミュニケーションが必要な場面。

コミュニケーション過剰社会からの逃走行動として、ひきこもり行動(物理的なものに限らない)があるのだとしたら、逃走した先に接続すればいい。

ただ、その先には必ずしも人がいる必要はない。

コミュニティを謳う地域組織やカフェが立ちゆかなくなるのは、そこに来る人がなんらかのコミュニケーションをしなければいけないということと、ここ以外に自分が行かれる場所がない(物理的・心理的に)という当人の妄想にも近い経験則などを交えた危機感に関して、運営側が居場所という「自分がそうだと認められる場所」というふんわりとしたポジティブな感情を重点に焦点を当ててしまっているからだと推察する。ただ、元々「誰でもいいから誰かとつながっていたい」というひとが介在する欲求がある人が、環境の変化で途切れてしまった場合は有効な手立てたと思う。

つながりには必ずしも人が介在する必要はない。

ただ、自分がつながれていると思えばそれはつながりだ、というのは少々乱暴のような気もする。

そこで出てくるのは、行動しよう、という自己啓発本の9割以上が占めている結果出てくる文言だ。

自分の好きがわからない、自分が面白いというものがなんだかわからない。

私もそうだったが、そのためにはとりあえず片っ端からやってみること、というと本当に自己啓発本の結論よろしくなってしまう。

私の場合は、切り絵を1枚で辞めた、ギター、オカリナを買ったけど辞めた、資格の勉強を始めたけど続かない、絵は2枚で断念、文章を書いてはいるがこれは好きというより、なんか出てきたものをただただぶちこんでいるという感覚。ただ、インタビュー記事も書くことがある。書けるときは書けるが、書けなくなるとまるでダメ。数カ月何も書けなくなる。文章を書いているときは嫌いではない。溢れる言葉を感覚で作っていく。

本はそれなりに読む、というか集める。今何冊あるかはわからないが、1000近くはあると思う。話がそれた。

ここまで見ると、私の中の「行動する」は本を集めることと、何か書きたくなったら書く、ということだと思う。

書くときは読んでいる人のことを考えることなんてない。

なので、私のつながりは「本を集めること」「何かを書くこと」だ。

ここでは人とのつながりと区別するために、人が介在しない何かとの接続を「ツナガリ」とカタカナ表記で仮定する。

では、そのツナガリをつながりに変えたいと思うきっかけは何なのだろうか。

それは、ひとつには認められたい、誰かに見つけてもらいたいという寂しさからくる何かのレスポンスかもしれない。

ただ、そのレスポンスも必ずしも人でなくてもいい。説明をする必要ないものでもいいはずだ。

動物でも、植物でも、風でも、宇宙人でも、ChatGPTでもアレクサでもいい。

どういうレスポンスを求めているかにもよるが、空気を読まなくてもいい存在にレスポンスを求めるというのは非常に心地よい気もする。期待をしても返ってくるかはわからないからだ。

違和感という言葉を広辞苑で引くと「ちぐはぐな感じ」と出る。ちぐはぐとはこれまた広辞苑で引くと、対応すべきものが不調和だったり不揃いだったりするさま」とある。一貫性がない感じ、ともでる。一貫性があることを求めているのは誰だろうか。当人か?相手か?

当人が一貫性を求めている場合、自分が納得する方法を探すしかない。

相手であった場合、そこにはコミュニケーションが存在する。

巷で使われている“違和感”が「何か知らんけどムカつく、イライラする」と類似するものだとしたら、それは同じような体験をしたことがある人にとっては「わかるようなもの」でありやすい。この時の違和感は、のようなものであって、社会と接続するツールだ。

ここまで書いてきて、私たちが常日頃感じている“違和感”が本当に「ちぐはぐな感じ」だろうか、と考える。

まだまだ何かが足りていない。

sarami

生き意地の汚い人生を 送っています。

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