もう、終わった物語

住人

「語りに価値を」

生きづらさというキャッチコピーが一般的になり、今まで社会の膜に薄く覆われていた小さな声が表に出てきている昨今。
私は、もう終わった物語の世界にいるようだった。

かつて、自分が語りたかった物語。
自分の経験をこれからの人たちに伝えていきたいという、ありきたりな一般的な普通な大義名分。
「先生あのね」のように、ただただ自分が見聞きしたことを聞いてほしい、という欲求。

だけど、痛みに苛まれていた時。
のどの渇きがどうしようもなく、ただ病室で呼吸だけしていたとき。
太ももが両手の親指と人差し指で作った輪に入るほど痩せ、家のベッドから天井を見つめるだけしかできなかったあの日。

私はそんなこと思っていただろうか。

入院をしながら、病院のレストランに50円で売っているゆでたまごを買っていた日。
夜眠れなくて、ナースステーションに入り浸っていた日。

私は、今この状況を誰かに伝えたい、と思っていただろうか。

カテーテル感染の状況が落ち着き、2週間の入院を経て、学校へ戻る。
ただの日常だった。
誰かに伝える、ということを微塵も思っていなかった。

「あなたには伝える使命があるんだよ」

「神様が『生きろ』って言ってくれたんだよ」

そういう声を聴きながら、大人になるにつれどこか自分は特別な経験をしたのだ、とどこかで誇るようになった。なってしまった。
自分の語りに価値があると、思い込んでしまった。

伝えなくてもいい。伝わらなくてもいい。
伝えなくても、知ってもらう。

それは、マイノリティな部分でもなく、つらい経験でもなく。
付随するもの、付属物程度として知ってもらうこと。

私は、“生きづらさ”だけでは、生き続けられないということに気づいた。
生きづらさがなくても、私たちは生きられる。生きづらさがなくても、私たちは死なない。

”そんなことで”
死なない。

立っていても、座っていても、寝ていても。前にも、横にも、上にも、下にも、後退しても、1分後にも、1日後でも。浮足でも、踏みしめても。夢を見ても、我に返っても。ポジティブでも、ネガティブでも。死なないでも、生きるでも。

生きづらさのその先へ。

sarami

生き意地の汚い人生を 送っています。

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