自分でも理解できないものを書きたい。

住人

この記事が誰に読まれているかはもちろん、どれだけの人に読まれたかは、興味のないことだ。まったくないわけではないけれど、若かった頃と比べたら雲泥の差がある。それはなぜなのか自分でもわからないのだけれど、何度も書いている通り、《自己救済》という側面が大きいと感じる。極論を言えば自分が楽しければそれでいい。とは何度もここに書いている通り。多分、小説も同じようなことをタイトルを変えただけで、こねくり回している、そんな反省点が浮かぶ。自分で書いたかわいい子どものような小説/作品たちなのに、忘れるって重い罪だな。でもザ・ローリング・ストーンズのミック・ジャガーが「細かいことはいちいち覚えていない」と自分の曲に対して言い放つくらいだから、わたしの忘れっぽい性癖だって許されてほしいものだ。

でも、書くことが、永遠に自分を癒す行為であるはずはないし、進歩していかねば芸術家とは言えないのではないか。村上春樹さんがずっと前から言っていることで、肉体の強さは小説を書くのに絶対必要という考えがある。19歳から小説を書き始めて、その頃は当然ながら、そこに至ることはなかった。しかし、日常的に衰えを感じるようになった昨今、村上春樹さんの言葉は身に染みる。これからは義務として体を鍛える行為を行なっていかなければ、もう一歩先へは行けない。松本人志さんがある時からムキムキになったのも笑いに関係あるからだろう。アスリートが体力が落ちると当然、スキルも衰えるし、だからこそ工夫も必要になってくる。この考えを芸術家にまったくスライドさせて問題はないだろう。年を取れば精神力も熟練されていくのだと思っていた。でも現実はそうじゃない。体力と同じように衰える。それを少しでも食い止めるには体を鍛えるしかないと感じている。

スキル面で、今のわたしにできること。文章を書くことを楽しむ、文章を平面的に絵を描くように書く、シンプルな登場人物/世界観/ストーリー/テーマで言葉を埋めていく……。それがせいぜいのわたしの現時点でのできることだ。もう一歩先のもっと先へ、当然のごとく行きたいわけだが、残された時間は多くはない。今のわたしの小説での文体は外国人のカタコトの変な日本語を目的地として書いているので、そんな《味》を獲得するべく、愚直に書きまくるしかない。それを計算して、あるいは説明できるように書きたいとは1mmも思わなくて、むしろ、たまたま生み出された小説を書けたらいい。《偶然書けてしまった》を待ち続けて、死ぬまで書いていたいな。マーケティングの才能もないし、社交性もなくて人と話すのはごく一部の人を除いて苦痛だ。だから一直線に何の策も持たずに、書き続けるしかないですね。

ダイエットが続かなくて、三日坊主を繰り返している。《繰り返している》だけ、何もしなくなるよりはまだマシなのかも。とはいえコロナ禍以前に比べて7、8kgほどボリューミーになったから健康も心配。何より《書き続ける》ことができる体型にはほど遠い。これでは人生というマラソンの折り返し地点を過ぎた今、唐突にガス欠になっても不思議ではない。アイデアは底から千曲川の川上の水のようにじわり湧いてくるのだが、それを掬った両手からみるみるうちに溢れていってしまう。しかも掬えるのは次で最期かもしれない。もう若くないから、アイデアは以前飲み込んだ量より劣っている可能性が高い上、突然死んでも不思議ではない。今できることをひとつひとつ積み重ねていくしかない(水みたいなものだから高く重ねていくこと自体できないことなのかも)。水晶になったアイデアのそれを、三途の川の鬼に崩されるのが先か、テッペンまで積み重ねられるのが先か。

ここまで書いて、やはりいつものように何を言いたいのかわからない文章になった。でも、自分の書いたものを自分が理解できてしまってはつまらないよなあ~。まあ、これくらいの短いエッセイなら理解して、何を伝えたいのか明解にしたいところ。でも、それはエゴか。そもそも小説なんてエゴそのものだし、わたしにしたらほかでもない《自己救済》だから、他人には迷惑な代物でしかないのかも。だから《イヤゲモノ》を押し付けるようなことは決してしない。多分、図々しいほど人に認められる機会が多いのだろうね。わたしは生粋の日本人なので控えめにいたい。妻には《頼りない人》と思われているに違いはないのだが、同時に「仕方ないわね」と認めてくれてもいる、惚気かよ。でも、妻にでさえもわかってもらいたくないのは事実だね。自分でも理解できないものを書きたい。それが芸術だって気がするね。だから、アクセス数なんかに目は向けていられないのさ。

なかがわ よしの

生涯作家投身自殺希望。中の人はおじさん。早くおじいさんになりたい。

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