ここにいてもいいんだ

住人

この間、15歳の頃に会った友人らと集まった。5年間の寮生活を共にした大切な仲間たちだ。2泊3日、古民家で共同生活をした。

僕らは頻繁に連絡をとっていないし、SNSで繋がっていない人もいる(繋がっていても見てない)。どれだけ会う間隔が空いても、彼らの前では自然体でいられる。居心地が良い。一緒にいる時間と彼らのことが好きだ。


10代の頃「クラス」という括りが苦手だった。いろんなタイプの人がいる。僕は全ての人にとって「いい人」であろうとしたが、そんなことはできなかった。

中学生の頃、いじめみたいな荒っぽいことや嫌なことをされても、なるべく笑顔でおどけていた。そうすれば人は離れないだろうな、と思ったからだ。学校で嫌なことがあっても、親が悲しむと思って、話せなかった。仲の良い友達が教室にいる時以外は、あてもなく廊下を彷徨っていた。

自分のことが嫌い。
クラスという空間に自分はいない方がいい。
僕は、自分を殺す ことを覚えた。

高専生の頃、中学生の自分が嫌いだったので、いじめみたいな荒っぽいことをしたり他人の陰口を話すような人とは距離を置いた。というか、そういう人たちとの適切な接し方が分からず、話すことができなかった。

自分のことが嫌い。
クラスという空間に自分はいない方がいい。
自分を殺して、殺しまくった。

そんな中で救いだったのは、友達がいてくれたことだった。中学生の頃にも、高専生の頃にも、基本的にいつも僕の周りには友達がいてくれた。特に、寮生活を共にした仲間の存在が、救いだった。一緒にアニメ見たり、カードゲームしたり、ご飯食べたり、風呂入ったり、夜な夜な語り合ったり。友達の存在こそが、生き続けていられる理由だった。彼らの前では自然体で過ごすことができ、彼らといる時には「ここにいてもいい」と感じられた。

でも、本当に辛いと感じていることは、なかなか話せなかった。カウンセラーの大人に話しても「それを気にしなくすることはできないの?」と言われたし、友達に勇気を振り絞って話したことや気持ちがあしらわれてしまうこともあった。大人や友達に悪意がないことは分かる。ただ、自分が傷ついてしまう。人を傷つけるくらいなら、自分を殺した方がマシかな、と思った。

19歳くらいの頃、買い物の帰り道で、歩き方がわからなくなった。どうやって右足を出して左足を出せばいいんだっけ、どうやって足を出したら真っ直ぐ歩けるんだっけ、という状態になった。行きで20分歩いた道を、帰りは2時間くらいかけて帰った。寮に着いて、友達に抱えられながら、4階の自室に辿り着いた。

おかしくなってしまった。

夜に悪夢を見てパニックになることが増えた。
涙が出て止まらないことが増えた。
その内、一回だけ、友達の部屋に行って、泣いてしまった。
随分と困らせてしまったと思う。
それでも、黙って話を聞いてくれた。


年を重ねるにつれて「ここにいてもいい」が増えた。

19歳〜20歳の頃は、研究室も「ここにいてもいい」と思える場所だった。バナナ冷凍事件、研究室のプロジェクターでウイイレをプレイ、休日にドライブ、映画泥棒の被り物制作、グレーのパーカーを着る権利争い(友達と被っていたため)。いろんなことをやった。楽しかった。マイナス思考の僕がネガティブな方向に走ると「ネガティブわたなべが出てるぞ〜」と優しくイジってくれた。

社会人になってから、心の内を話すことができる人と出会った。自信がなく行動できなかった僕を、その人は無理やりにでも引っ張ってくれた。そして、行動を起こした先で、数えきれないくらいの人と出会った。こうしたい、やりたい、をいくつもやることができるようになった。どんなにふざけても、真面目に話しても、気持ちを開示しても、間違ってしまっても、自分という存在を認めてくれた。

「ここにいてもいい」を、僕はたくさん感じられるようになった。


古民家に泊まった日、自分が考えていることや気持ちを友達に話した。誰も僕をあしらわず、馬鹿にもしなかった。きっと、10代の頃の僕も、友達も、若すぎたんだと思う。そして、みんなが20代でいろいろ経験し、変わったのだ。変わったことも肯定しあえる。この関係性を大切にしたい。


僕はSNSで弱音をこぼすことがあるが、友達は見守ってくれることが多い。LINEをしたり直接会った時には話を聞いてくれる。そうしてくれると、僕は居心地が良いと感じられるし、高専の友達は皆そうしてくれる。

古民家生活が終わってから「友達としてのあり方」について考えた。友達のことを気にかけつつも、その人が持つ力(レジリエンス)を信じることが、友達を続けるためには必要なんだろうな、というのが、今の考えだ。

僕は人のことを心配してあれこれ手を出しすぎなところがあるが、自分のことも友達も大切にするために、人が持つ力を信じていたい。

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「ここにいてもいい」の正体は自己愛なのかもしれない。自分という存在を認めること。僕はそれを友達や居場所に求めていたが、いまは自分の中にも居場所をつくろうと思っている。

ありたい姿である

そのために必要なことを考えて取り組んで、理想を目指す

その過程や感情を自身が認める

頑張った自分を癒すために、自身を心地よくする手法を用いる

自身を健やか保つ

やりたいことをやる

この全てが自己愛に通じていて「ここにいてもよい」と自身を認めることにもなるんだと思う。

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砂漠に友達といたとして、目の前に水が入ったペットボトルがある。こんな場合、今までの僕なら、水を全て友達にあげただろう。生きててこの先やりたいことなんて、そんなにはないのだ。でも、今は、水を分け合って、友達と泉を探し合うことを選べる。

「ここにいてもいい」を感じながら生きていきたい。

ワタナベ

新潟県上越市生まれ。THEYELLOWMONKEYが好きです。

プロフィール

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