自分らしくではなく、ありのままで暮らす。

住人

何度も書いている通り、わたしは精神病なんだ。だからって生きづらいだなんてアピールするつもりはない。これがあるがままのわたしだ。わたしらしくとか、らしさってなんだとか、主張したり追求するのは、いい加減止めようと思う。ただあるままでいい。

詩の朗読をしたことが今年は2ヶ月に1回くらいはあった。わたしの朗読はとにかく叫ぶので喉が痛む。そして、それ以上に心が病む。主治医曰く「ストレス発散になりそうなもんだけどなあ」ということだが、そうでもない。以前は、自分でも主治医と同じ意見だったのだが、今年のライブのあとは気持ちの《揺り戻し》が酷くて辛かったため、「ライブは気持ちに悪影響を与える」ことを知った。年のせいなのか、病気が酷くなっているのか。

原因として自分の内心を隠さずに絶叫することは、ある種のカタルシスとなっていると考えられる。その反動で辛さが襲来するんじゃないか。あと、嬉しいことに感想を言っていただく場面も多かった。「自分を貫いてるね」とか「もっと多くの人に聞いてもらうべき」とか。正直、わたしは人を信用していないので、そういう言葉を根っからは信じられないのだけれど、嬉しくなることも多々ある。故に跳ねっ返りがすごい。それは、ブランコで背中を押してもらって大きく上空へ投げ出される時に見る光景、感じる空気、そこはかとない解放感に似ているのかもしれない。ブランコの揺れが大きい分だけ、それと同じ揺り戻しが来る。海が満ちたり引いたりするこの宇宙だから、揺り戻しは当たり前の現象、今さら気づいた。前から薄々知っていたけれど、今年はそれをはっきりと突きつけられて、しんどいめに何度も遭った。

揺り戻しがくると落ち込むことが多い。でも、それなら自分で処置ができるから、あまり怖くはない。猫を愛でたり、ゆっくり湯船に浸かったり、甘い物食べたり、音楽聴いたり、適度にお酒を飲んだり、寝たりすれば良いのだ。10年くらい昔までは、処置の仕方を知らなかったどころか、自分の心の状態を把握すらできていなかったから、随分成長した。揺り戻しがあって辛いばかりだけど、でもどうしてそれが起きたのかわかるし、なんとなく対応もできるし、年の数だけ前進しているな。

困ったのは最近の症状のことで、揺り戻しの《戻し》がえげつない点にある。わかってもらえるかわからないが、感情を制御できない一歩手前の精神状態に陥る。何かひとつストレスがそれ以上に集まったら、発狂してデストロイヤー化しかねないほど追い込まれる。「うあー」とか叫んで何もかもぶん投げたりぶち壊したりしたくなる。8年前に一度、6年前に一度、合計2回、感情がコントロールできなくなり、家の窓ガラスを破壊したり、電子ジャーを力任せに投げたりして妻を泣かせ、娘を恐怖のどん底に突き落としてしまった。何度もここに書くのは戒めのためで、もう二度と家族にとって、あんな悲しいトラウマになることはしないと誓う。

それは固い誓いのはずなのに、制御する自信が持てないことの方が多い。対策を練らねばなるまい。そんなどうしようもない状態になったら、とりあえず家族に素直に伝えて家を一旦離れよう。さすがに街へ行って何かを破壊する衝動に駆られるとは考えにくい。あとは悔しいけれど、最高でも2ヶ月に1回のライブ出演に留めることは大事かも。いや、もっと減らすべき?主治医やカウンセラーの先生から、行動を制限されることが多くて嫌になるのだが、彼、彼女の言うことは正しい。わたしの病気は見た目よりも、自身が思っているよりも深刻だ。一生治らない。年を取ったことも関係してるのかな。うまく付き合い、乗りこなしていくしかないんだ。「無理は出来るときにしか出来ない」とイチローさんが大谷翔平選手に言っていた切り抜き記事を書斎にしまってある。違った意味としてあえてわたしはそれを自分に当てはめて、「老いることを受け入れろ」というふうに消化した。

老化や病気や貧困や死への恐怖が日に日に増してくる。これを読んでくれているあなたはきっと48歳のわたしより相当若いと想定している。年を取ったら、好きなことでさえも制約が出てくることをどうか覚悟しておいてほしい。だから今をやりたいことで埋め尽くして。だからってわたしもわたしで諦めないさ。自殺しない限り、まだまだ人生長いんだから老いに立ち向かって、書きたいことを書く。会いたい人に会う。おいしいものを食べる。そして家族と仲良く過ごす。若くはないこと、受け入れた。若さを諦めた。でも「諦めたらそこから試合開始」だと口酸っぱく言いたい。

なかがわ よしの

生涯作家投身自殺希望。中の人はおじさん。早くおじいさんになりたい。

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