丁寧な生き直し
「サードプレイス」の概念を知ってー…
そんな理由で、この場所に縁をもち、入居させていただいてから、はや何年が経っただろうか。行末は、この場所からの脱却は幸福の1つに結びつくような感覚もあったけれど、実際のところ、自分がずっと人生の「おどりば」にい続けるその理由は、自らが望んでいる生き方そのものではなかろうか、と最近になって、再考している。
※ サードプレイス https://www.kaonavi.jp/dictionary/third-place/
要因
1:社会人スタートの遅さ
一般的な社会人は、同世代だと2014〜なので今年で11年目
・ それに対し、自分は2017年スタートで3年の遅れ
= 浪人、大学での過年を含め ∴ 3年の遅れ
…それを踏まえれば、年齢が先をいくが実際のところ、それぞれが
29あたりで経験するであろう転職活動などを豊富に経験している、
という点では遅い、にはカウントされない一面もあるのではなかろうか…
稀有な経歴の持ち主ということで改めて再認識してもらえる点もあるのでは…
2:稀有な人生(自分比)
- 一般的な人と比べて、モラトリアムが多いこともあれば、身近な人の死を多く経験していること
- 怒るよりもまずは傾聴を意識する
3:祖父からの教え
- 人はまず泰然自若とするべきである
- 達観すること
このような要因も含めて、自分は何かを目的にしっかりと生きていく、というよりも、まずは自分のやりたいことをやる、ということから周りも認めてくれる環境にあったから、ということなのかも知れない。けれども、それの反響は、早いうちから親や老親を亡くし、そのフォローに入りつつも自分のやりたいことやなりたいことにしっかりと向き合う、といういわば業のようなものを、今味わっているのかも知れない。一般的には、それが当たり前になる、というのはあるし、ひとによってはもう生まれながらにしていない、ということもあるかも知れないけれども、少なくとも身の回りを見ている以上は、それは少数派で、自分もいつの間にか少数派に入ってしまうことになっていた。
でも、高校の頃は色々掛け持っていたし、そうでなくても好奇心旺盛で自分のやりたいことを追求する自分は、もとよりやはり、少数派なのかも知れないと思い始めたのはつい最近のこと。周りから見ておかしくないように、と育てられてきたせいで、うまくいったこともあれば、それによって絡められてうつなどを経験したこともあり。結局のところ、それも自分が望んでいる楽しい生き方なのかも知れない。そんな気がする。
波瀾が好きなわけではないけれど、何もなくいわば順風満帆は糞食らえである、というような感じでずっと生きてきたし、それを自分が楽しむそんな気概もあることから、まあこれも人生だな、と思う反面、もっといわゆる蓄えのような、あらゆる蓄えのような経験をしても良かったのかも知れない、とも思ったり。でも、それも含めて。
おどりば、にまだまだいるつもりです。
最近の近況報告としては、まだまだ薄い方だけれども、自分の綴りたい文章や人生を、自分の足で歩むために、今から少しずつ。
10号室、T tatsuでした。
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