自己決定はワクチンのごとく

住人

バイスティックという人がいる。

社会福祉を一度でも学んだことがある人なら、メアリー・リッチモンドと合わせて、必ず聞いたことがある人物だと思う。
この人が提唱した原則に「バイスティックの7原則」というものがある。

簡単に言うと、相談援助業務に携わるソーシャルワーカーたちが身に着けておくべき専門的な技術のことだ。

http://www.ee-life.net/hatena/biestek.html ←バイスティックの7原則に関する説明はこちらです。(「あ、この人機械的だな」と感じてしまう専門職ほど僕は冷めてしまうけど、わからないように滑り込ませるプロには尊敬しかない)

その中に「自己決定の原則」というものがある。
『自分のことは自分で決める』という日常に特に困難さを感じない人にとっては無意識でやっていることかもしれないが、意思疎通や判断が難しい知的に障がいのある人や認知症の人にとっては自分で自分のことを決めるということに困難が生じる場合がある。社会福祉に携わる人たちは、こういった人たちを支援しようと日々奮闘している。

自己決定できるというのは、それだけで好ましく、望ましい状態なのだという。

ただ、この「自己決定」という言葉。
広義に捉えたとき「自己責任」という言葉とセットで使われることがある。時には自己決定=自己責任 のように言い換えた言葉として扱われることもある。
自己決定をすることは、その決定をした自分に対して責任を負うということのようだ。

一般的に何かを決定するには、材料が必要だ。
どこの大学を受けるかというとき、偏差値や自分の気力や実力、先輩からの話。
大学でどの授業をとるかというとき、シラバスや他に楽な教科はないかを調べたり(私だけ?)
仕事をしているときも、上司の判断が必要なもの、自分で判断をするときには過去の例や対応を見たり、どのくらい儲けが出るかデータを見たり。
病気になったらどこの病院で診てもらうか、評判を聞いたり(主治医に会ってみなければわからないパターンも多いけど

付き合う友人や恋人も、選択を決定する。
「あ、この人とは合わないな」「なんかフィーリング良いかも」「一緒にいて悪くないな」など、感覚によるものもあるかもしれない。

と、ここまで見てきて、改めて考える。

どうして自分には決定する権限があるのか。

「どうして自分で決めなくてはいけないのか」
例えば、自分が仲良くしたいな、お近づきになりたいなと思う人がいるとする。
だけど、その人からすると仲良くしたくないし、お近づきになりたくない。

自分の付き合う人を自分で選ぶというのは、相手も同じ条件なんだ、とそのとき思い出す。
相手に好いてもらうにはどうしたらいいんだろうとなった瞬間、自己決定の主体は相手に委ねられてしまう。

自己決定の考え方は、空気にとても良く溶け込む。そのよどみはノミのように小さく、ぬらりひょんのように存在感がない。

僕は、自己決定は良いことなのか、と問われたときに「YESとは言えない」と答える。

それ自体は否定しないが…と言ったところ。

例えば結婚。
昔は見合い結婚が多かったらしい。
最終的に決めるのは相手と自分だけど、年齢とか家族とかの内や外からの縛りで頷かざるを得ない状況で結婚した人もいたのかもしれない。
これも良い点と悪い点があると思う。
良い点は、自由恋愛だと明らかに「そんな人やめときなよ…」と言われそうな難のある人が、いい会社に勤めている、いい歳という理由で、将来的な孤独を避けられるという点(ゆがみすぎかつ偏向的なメリット)
悪い点は、時間をかけて恋愛をしていればわかったであろうことが結婚後わかり「こんなはずじゃなかった」と思われる点だろうか。

ここで言いたいのは、交際や結婚という極めてプライベートなことに上司が仲人を勤めたり、「あんたももういい歳なんだから」と頼んでもいないのに見合い写真を持ってくる人の存在が今はあまり見受けられないという点だ。

「そういう時代ではない」、に一蹴される。

恋愛における自己決定、自由恋愛というものは、弱肉強食を生み出している。
自分に合うか合わないか、をフィーリングで決めてしまえる点にメリットもデメリットもあると思う。

自己決定は「選択させられている」ということに気づくことで初めてその効力を発揮するのではないかと思う。

福祉における権利擁護としての自己決定は、利用者が「選択させられている」と感じることはどこまであるのだろうかと思ってしまう。
選択肢はたくさんあるけど、それを能力的に選ぶことができない。選んでもらうために整理したり、まとめたり、その人が選択しやすい環境へと整える。
そこに支援者側の意思がどれだけ入り込むかはわからない。
この人にはこの方が良いと思う、という意思が。

最初に、「『自分のことは自分で決める』という日常に特に困難さを感じない人にとっては無意識でやっていることかもしれない」と述べた。
だけど、完全にすべてを自己決定できているかというと、どうなのだろうか。

それに、人や環境に選んでもらった方が楽なことはあるはずだ。
自分で選ぶことがあたりまえで、かっこいい。

どこかでそんな風に思ってる自分がいるのかもしれない、と感じてしまったとき、顔も知らないバイスティックがどこかで目が笑っていない微笑みを浮かべているようだった。

『自分で選ぶことは良いことです。ただし、その結果何があっても自己責任です。』

ワクチンより皮肉と風刺が効いている。

自分の人生を自分で選ぶ、というごく当たり前のことが本当にそうなのか。人に任せられる部分はないのか。そんなことを考えてみた。

sarami

生き意地の汚い人生を 送っています。

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