こどもをつくるということ
ここ何ヶ月か、ずっと考えてきたことがある。
子どもをつくるということについて。
子どもを育てるということについて。
いずれ親になるかもしれない僕らに必要なことはなんだろう。
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向かいにあるアパートから、よく怒鳴り声が聞こえてくる。子どもの泣き声や、犬の悲痛そうな鳴き声も、四六時中。耳を澄ませて聞くどころか、聞きたくないのに耳に入ってくる。
どうやら、その部屋には一家が住んでいて、お母さん、子どもが3人ほど、あとは犬という家族構成のようだ。子どもの声を聞くと、小さい子だけではなく、10代半ばと思われる女の子もいる。母親に自分の意見をはっきりした言葉で言っているから(ものすごく大きな声で)。
部屋からは成人男性のような声を聞いたことがない。きっと、この家庭は母子家庭だ。そう考えられるのはなぜか。もしこの家庭に旦那さんがいて働いていれば、そのアパートで暮らす必要はなく、もっと良いところに住めるはずだ。アパート名をネットで調べたら、僕のアパートと同じ1Kで家賃は4万円台。夫婦共に働いていたら、絶対にもっと良い場所に住めるはず。
なぜその一家は狭いアパートに住まなくてはいけない状況になったのか。旦那さんと別れたか、もしくは、旦那さんが亡くなったりしてしまったのだろうか。旦那さんと別れたとしても、円満に別れたのであれば、養育費は支払っているはず。どれだけ考えてもわからない。実家に頼ったり、兄弟姉妹には頼れなかったのだろうか。
子どもは幸せなのだろうか、お母さんは幸せなのだろうか。自分でつくった子どもをお母さんは可愛いと思っていないのだろうか。怒鳴り声も泣き声もずっと聞いている自分からすると、その一家みんなが、幸せではないんだろうな、心のゆとりが無いんだろうな、と思ってしまう。親子だけでなく、子ども同士も喧嘩している。「だから台所を掃除しておけって、出かける前に言っただろうがぁ!!!!」という怒鳴り声が聞こえたことがある。母から子へ。とても強い口調で、自分のストレスを、抑えることなく100%で、子どもにぶつけていた。愛が本当にあるのであれば、こんなこと、子どもには言えないと思う。
僕は怒鳴り声の出る一家の近くに住み、いろんなことを考えた。病んだ。外にでたくなくなった。それでも僕は考えたかった。子どもをつくること、それにまつわること、僕らに必要なこと。今から僕の考えを書く。まとまってはいないし、人によっては「それは違う」と言いたくなるかもしれない。それでもお付き合いいただければ幸いである。
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まず「子どもをつくる前に必要なこと」。これについて僕は「夫婦が満たされていること」だと考えている。ひとつの命を夫婦ふたりが生み出す。この時点で子どもを育て上げる責任が夫婦間で平等に発生する。子どもを産む選択をする権利は誰しも平等にあり、同様に「子どもを責任を持って育て上げる義務」も平等に発生するものだと僕は考えている。だから、お互いがお互いを思いやって、尊重して、足りない点はサポートして、協力して、そういうことをまず夫婦同士ができていないと、人ひとりの人生に責任を持つことはできないはずだ。支え合うことが子育てには不可欠だし、「支え合おう!!」という気持ちでいるためには、パートナーへの愛や信頼が必要だと思う。まずは(適当な人じゃなくて)愛し信頼できる人とパートナーになること、そして互いを尊重し続けられて、満たし合えていること。これらが子どもをつくる前に必要なことだと僕は考えている。
次に「子どもをつくること」について。そもそも、子どもはつくるべきか、なんで子どもをつくりたくなるのか。その辺についての考えを書き記す。
まず、子どもをつくるべきか。つくるべきか、つくらないべきか、で語らない方が良いのはわかる(わかっているけど、書く)。日本を持続可能に、いいかんじ続かせるという観点から考えれば、若い人口が増える方が良い。そして高齢者と若者のバランスが適切であれば良い。日本には少子高齢化という問題がある。厚生労働省が2018年に発表した情報によると、1人の女性が生涯に産む子どもの数にあたる合計特殊出生率は1.42となっている。人口は緩やかに減っていっている。若い世代の人口が減っていくと、高齢者を支えるためにひとりの若者が強いられる負担は大きくなっていく。その負担が大きくなるということは、若者が自由にのびのびと生きることを阻害してしまうことに繋がる。長々と書いてしまったが、日本を持続可能に、いいかんじ続かせるという観点から考えれば、若い人口が増える方が良い。よって子どもはつくった方が良い ということになる。
ここからは日本を持続可能にするとかなんとか難しいことは考えず、子どもをつくりたくなるっていう感情はどうやって生まれるんだろう、なぜ子どもをつくりたくなるのか について、自分と自分以外の人の考えを交えて書いていく。
まず、このあいだ知人と飲み、子どもをつくること、つくりたくなることについて意見を交わしたとき、彼が言ったことから触れる。彼は「言葉が適切か分からないけど」と前置きしたうえで、「作品づくりをしたいという側面も少なからずある」と答えた。それは僕も分かる。自分とパートナーの今まで生きてきた時間の中で得た価値観、考え方を引き継いだ子どもをつくる。子どもはやがて自分の意思で生きていく。子どもが何かを成すためにサポートして、その子どもが何かを成すと、自分のことのように嬉しくなる。大変なこともあるけど自分が充実できて、一生かけて関われる「作品づくり」。こういった側面が、子育てには、少しはある気がする。
彼の元恋人さんが言っていたことも、彼は教えてくれた。元恋人さんは「後ろめたさをなくしたい」ということを言っていたらしい。これも分かる気がする。親類との集まり、同世代の友人との集まりで、自分にパートナーがいない、結婚をしていない、子どもがいないとなると、年齢が高くなればなるほど「多数派」から見られる目や言われる言葉を気にしてしまう。マウントを取られる。それが嫌だということ。自分に自信を持って色んな人と話すために、自分の心を安定させるために、パートナーをつくり、子どもをつくる。これもひとつの意見として、僕は尊重したい。
僕はどうだろうか。子どもをつくる、つくらないは、一生大事にできるパートナーができてから相談して決めるとして、僕個人の意見としては、子どもがいた方が、自分にとってのワクワクする未来に繋がるように思っている。僕は人の喜んだ顔を見るのが好きだ。友達と遊ぶのが好き。意見や感動、楽しいことを共有することに喜びを感じる。それは今まで友人知人間での話であったが、ゆくゆくは、「歳の離れた友達」のような存在が欲しいと思う。僕は仮面ライダーが大好きで、戦隊物やウルトラマン、アニメも好きな方だ。それを子どもと共有できたら、めちゃくちゃ楽しいだろう。そして、バカみたいなことをやるのも好きだ。20代になっても、夜の海辺で花火をして駆け回ったりしたし、友達と24時間やっている温泉施設へ行った時、自分たち以外誰もいなかったので、夜中の3時に温水プール(?)を全裸で泳いだ。110度のサウナの中でフルチンしりとりをやった。くだらないことが大好きだ。友達と楽しい時間を共有しているときに思うのは、30代になって家庭を持って、みんなで子どもを連れて遊びに出かけたら、めちゃくちゃ楽しいだろうなっていうこと。もちろん、子どもを持ったら、その子どもの模範にならなければならないので、節度と常識を守ったうえで、楽しいことがやりたい。楽しいことをパートナーや子どもとやるためにも、支えるための収入は満足に得られるよう仕事をしたい。
今日の一曲:Father / by THEYELLOWMONKEY
まだ文章は続く。
ここまで「子どもをつくる前に必要なこと」「子どもをつくるべきか」「子どもをつくりたくなるのってどんな時か」について考えて書いてきた。つくるべき、つくらないべきは置いておいて、将来的に子どもがいたら、楽しいだろうなとは思う。その未来のために必要なのは、繰り返しになるが「愛し信頼できる人とパートナーになること」。でも、楽しい未来のために、子どもは必須ではないと思っている。子どもができない、いなくても、2人で話して、ワクワクする未来をつくりだせるはずだ。2人でずっと過ごしてもいい、どちらかの実家にいてもいい、2人だけでなく、いろんなコミュニティーに属し顔をだす生活もいい。犬や猫を飼って2人で愛情を注いだっていいんだ。愛し信頼できる人とパートナーになったのであれば、話しあって、「ワクワクする未来」をつくっていけるはず。
ここで、僕の向かいのアパートの家庭について、もう一度考えて見る。
正直、なにがあったかは分からない。想定されていなかったトラブルがあったのかもしれない。でも、もし、旦那さんが病気や死亡ではなく、ただ単に自分本意で蒸発してしまったのだとしたら。もし、夫婦が自分たちの収入や心の安定、将来設計よりも前に、安易に子どもを作ったのだとしたら。そういうことを考えてしまうと、悲しいし、怒りが湧く。湧いてしまう。まず、子どもをつくる前に、僕らが「大人」にならなければならないって、本当に思う。子どもが現状いない夫婦であれば、結婚生活の中ですれ違いが起きて、「この先もこの人と一緒にいれない」と思ったとしても、いくらでもやり直せる。いくらでもやり直せるのに、一緒にいるという選択をし続けて子どもをつくり、子どもに自分のストレスをぶつけたりするのであれば、無責任にも程がある。子どもに罪はない。自分のストレスを子どもにぶつけるなんて、絶対にやっちゃいけない。話が逸れるが、選択ということについて自分の考えを記す。僕は、選択は一回や二回ではなく、選択は何回もし続けるものであり、無数に選択はやってくるものだと考えている。あの家庭の夫婦は適切な選択をしてきたのだろうか(やむを得ない事情があった可能性は否定できない)。選択は難しいけど、僕らは選択していかなければならない。自分の人生は選択の連続でつくっていくものだ。その選択と結果に責任を負わなければならない。自分以外の命をつくりだすという選択をしたのであれば、その命に責任を負わなければならない。これ以上、考えられることが僕にはないので、この家庭について考えるのはココでやめよう。
人生にはフェーズがある。子どもをつくり育て上げるより前、一番最初のフェーズ、「付き合う」は、そこまで深く考えすぎなくてもいいと思っている。一緒に過ごす時間をエンジョイしたい、深く寄り添える関係になりたい、楽しみたいという感情優先で良い。その次の「結婚する」は、少し考えがいる。人生単位で、ほぼ一緒にいることになる。女性男性どちらかの姓が変わる。選択肢のひとつに「子どもをつくる」、その先の道に「子どもを育て上げる」が生まれてくる。やり直しがきくフェーズは、「付き合う」「結婚する」。「子どもをつくる」「子どもを育て上げる」は、やり直しがきかないフェーズである(子どもを産んでから離婚したとしても、子どもをちゃんと育てるのであれば、問題ない)。
子どもをつくることに対して、重く考えてすぎてしまったかもしれないど、明るい未来をつくりたい気持ちは確かに僕の中にある。まずは、パートナーのやりたいことや理想に対して、全力で支えて応援できる「絶対的な味方」でいれる自分でありたい。僕は、人の喜ぶ顔が好きだし、誰か応援したい対象がいる時に、やべーほど力が湧いてくる。仕事でも、相手の顔がみれる場面だと、自分は頑張りたくなる方だ。過去の話だけど、将来的に農業やりたい(全然違う仕事していて経験ゼロ)という彼女がいたときに、「よっしゃ!!農業勉強したろ!!」と思って自分で調べごとを進めたことがある(将来2人で農業しようぜ!!的な…)。写真と猫が好きな人だったので、長野市の街中で野良猫がでるスポットを調査してまとめて提出し、野良猫と出会い写真を撮るツアーを実施したこともある(やばいって言わないで)。子どもをつくったとしても、パートナーも、子どもも、ずっっっと支えて応援して、楽しいことをずーーーーーっとやっていきたい。自分だけでなく他の人と関わって楽しい未来をつくりたいんだ。
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長くなってしまった。考えたかったから。ここまで付き合っていただいたことに感謝します。
僕らは両親につくられた命。僕らも命をつくる側に回るかもしれない。だから、考えたかった。他の人の意見や考えも聞けたら嬉しい。
大事なこと。この先の将来の話。
子どもをつくるということ。
コメント失礼致します。
ここまで「こどもをつくるということ」について、深く考えられる人、なかなかいないと思います。
付き合っていくうちに、価値観の違いや、そのすり合わせ方とか、一緒にいて楽しいかどうかを判断しながら結婚するかどうかを考えていくのかなーって思っています。
運とかタイミングとかもあって、一方が結婚したいと思っていても、もう一方が結婚する気が無かったら出来ませんしね。結婚は一人でするものではないので。(今のわたしの状況です。笑)
どんなことがあってもこの人となら乗り越えて行ける、とか、そういう判断力というか根気強さ、信頼関係も必要なのかもしれません。
それを兼ね備えた人と結婚して、子どもを産み育てていくんですかね。わたしもよく、「何で子ども欲しいって、みんな言うんだろ…」って思います。
でも今日、いろんなお母さんやお子さんと関わって改めて気付いたんですよね。愛する人と、その子どもに囲まれて過ごす時間ってものすごく愛しい時間なんだろうな、って想像している自分がいることに。
その反面、なるべくなら子どもを産まずに生きたい、夫婦でのんびり自由に楽しく過ごしたいと思うわたしもいる。
子どもはずっと赤ちゃんでいてくれる訳ではありません。一人一人違う。「想像と違った」という理由でリセットは出来ません。親と子どもの間でも、相性の良し悪しはあるけれど、そことどう向き合うかも大切になってきます。子どもだって「他人」であって、所有物ではない。
だから自分をまず満たして、パートナーを大切に出来るといいのかな。
ワタナベさんのお家の前のご家族も、お母さん、必死なんでしょうね。で、余裕がなくなって、怒鳴っちゃって、自己嫌悪に陥っちゃって、そこからまた怒鳴っちゃう。ソーシャルワーカーとか、生活保護とか援助を受けて、どうにか余裕が出来ますように…と祈るばかりです。そっとチラシとか援助受けられるよ!っていう通知を渡したいくらいです…お母さんの為にも、子どもたちの為にも。援助を受けること=恥ではなく、少しずつ周りにも頼ってほしいな、と思います。責任感も強いんだろうな。
長文ですみません。
自分自身、深く考えられるきっかけになった記事でした。
拝読できて良かったです。
ゆうりさん
読んでもらえて、感想や意見をもらえたことが、とっても嬉しいです。ありがとうございます。もらったコメント全文について感想返したいし、なんなら直接お話ししたい位ですが、そういうわけにもいかず。部分的に返信させてください。
>子どもはずっと赤ちゃんでいてくれる訳ではありません。一人一人違う。
>「想像と違った」という理由でリセットは出来ません。
>親と子どもの間でも、相性の良し悪しはあるけれど、
>そことどう向き合うかも大切になってきます。
>子どもだって「他人」であって、所有物ではない。
>だから自分をまず満たして、パートナーを大切に出来るといいのかな。
そうですね。子どもはずっと赤ちゃんでいてくれるわけではありません、記事の中で、僕は子どもをつくることについて、自分の意見として「歳の離れた友達のような存在が欲しい」と書きました。これについては記事の中で深く触れられなかったのですが、子どもを所有物のようにコントロールしたいと思っているわけではなく、あくまで他人であるという認識は自分も持っています。自分の意見を100%聞かせることは絶対にやりたくありません、僕がやりたいのは、子どもとの会話を通して子ども自身が「自分で考えて生きていけるようになる」ようにすること。その会話も親目線ではなく、できれば子どもの目線に立って考える。これが自分のやりたいことです。そのため、「友達」という表現を使いました。
子育ては楽しいことばかりでなく、大変なこともやってくると思います。子育ての中で生まれる人生の問いも、それについてイライラするのではなく、問いに向き合い、それすらも楽しめるようになりたい。これってまず自分が満たされていたり余裕がないとできないことだと思うので、まずは自分を満たし、そしてパートナーを大事にしたいのです。
>ワタナベさんのお家の前のご家族も、お母さん、必死なんでしょうね。
>で、余裕がなくなって、怒鳴っちゃって、自己嫌悪に陥っちゃって、
>そこからまた怒鳴っちゃう。ソーシャルワーカーとか、
>生活保護とか援助を受けて、どうにか余裕が出来ますように…と祈るばかりです。
>そっとチラシとか援助受けられるよ!っていう通知を渡したいくらいです…
>お母さんの為にも、子どもたちの為にも。
>援助を受けること=恥ではなく、少しずつ周りにも頼ってほしいな、と思います。
>責任感も強いんだろうな。
ゆうりさんの目線や考え方に、ハッとさせられました。そうですね。むこうの家庭のお母さんも大変だし余裕がないのかもしれません。いまこのコメントを書いている現在、その家庭からなぜか声が聞こえなくなってしまいました。たぶん誰もいません。なにかしらの手助けや援助を受けて他のところへ居場所を移したのか、ただ単に遠出しているのか、わかりません。ゆうりさんのコメントを読んで、いろいろな制度や、「手の差し伸べ方」についても、自分で調べて身につけたいと思いました。
長文になっちゃいましたね!コメントめちゃくちゃ嬉しかったー!!
異性とこのような話題で考えを深められる、意見を交わせる、おどりばという機会が自分に巡ってきたことが、本当に良かったです。
こんにちは。正直、コメントするかどうかとても悩みました。
でも、ワタナベさんが人と意見を交わしたいとSNSでやりとりされてるのを見て書き込もうと振り絞りました。
今から書くのはあくまでしえさんの個人的な考えであって
ワタナベさんの考えを否定したりするものではないということを念頭に読んでもらえると助かります。
まず、タイトルに胸がぎゅっとなりました。
というのも、子供を「つくる」という表現が苦手だからです。
(なので、正直読むのも勇気がいりました)
子供という命を「つくる」…私はその言葉に違和感や傲慢さを感じているのだと思います。
重箱の隅をつつくようなことを言って申し訳ないです。でも感じたことを伝えさせてください。
ワタナベさんが真摯にそして丁寧に「こどもをつくるということ」について考え、
書かれていることは伝わりました。共感することも多々ありました。
「ひとつの命を夫婦ふたりが生み出す。この時点で子どもを育て上げる責任が夫婦間で平等に発生する」
確かにそうだと思います。でも、実際に1つの命を“産む”のは女性です。
子供を育てあげる義務や責任は夫婦平等でも、育てる前の子供を“産む”という“リスク”は夫婦平等ではないと私は思っています。
子供を身に宿し、命がけで産む、それは男性にはできない、女性にしかできないことです。
そのリスクについて、「こどもをつくるということ」と題した記事で触れられなかったのは、
ワタナベさんの主張したいことから外れていたからでしょうか。
普段、女性だから、男性だからという言葉を使うのは極力避けています。
でも、こと「こどもをつくるということ」に関しては、あまりにも性差があり、
そして自分が女性という認識がある以上、使わずにはいられません。
私は女性だから、育てる前に産むことのリスクについて考え、そして想像します。
そして私は怖いです、子供を産むことが。育てることはパートナーと二人でできます。でも産むのは、私ひとり。
私は私がそのリスクを負って、平等ではないと不満に思うくらいならば、パートナーと二人、もしくは犬や猫に愛情を注いでいきたいと思います。
色々と考えさせられる記事でした。
女性だからという言葉を使ってしまいましたが、
これはあくまで私しえさん一個人の意見です。
どうか女性全体の考えであるようには受け取らないでいただけると幸いです。
しえさんが仰る、子どもを産むというリスクについて。女性は、子どもを産むだけでなく、子どもを産む前や後にも、自由な行動が制限されてしまいます。このことから、あまりにも女性側の負担が大きすぎると僕は考えています。しえさんの文面からも、女性側にかかる負担やリスクが大きいと感じられていることが伝わりました。
パートナーのことを大事に思っていたとしても、男性は女性の代わりになることができません。痛みを味わい命をかけるリスクを男性側は追うことができない。その代わりになるはずがないのですが、パートナーが妊娠出産をしている時は、男性側が経済面を支えられるよう最大限の力で仕事を頑張ったり、身の回りの手助けをしたり、パートナーの支えになるよう気遣いを忘れないとか、そういうことを頑張るしかない。痛みを味わえない分、できる限りのことをするしかない。このように僕は考えています。
自分は、文章を起こす時に、100パーセント考えていることを文章として出せるわけではありません。今回、文章から、女性側の視点が抜け落ちていた、あるいは足りないようにも思っていて。それでも、読み手からすれば、それがその人の考えていることの100パーセントだと思われてしまう(こともある)。文章の難しいところのひとつですね。
妊娠、出産、育児に関しては、いろいろな考えごとが付き纏います。だからこそ、自分の大事なパートナーと、しっかりと、じっくりと、話し合いたいですね。
僕はこのコメント記載時点で、大事なパートナーがいるわけではありません。この先大事なパートナーが、またできた時に。この記事を書いたことや頂いたコメントから考えたことを、活かしたいと思っています。
コメント頂けて嬉しかった。
ありがとうございました!