カッとなってやってしまった
あれだけ強い意志だったのに、なぜ音楽を志したのか覚えていない。野球のスイングならまだ体が覚えている。初恋の記憶なら、いまだに淡く心を締め付ける。でも、音楽に関しての胎児としての記憶は、なくしてしまった。大学にも行かないで音楽の専門学校に突き進んだことを≪バカだね≫って今では笑えるけれど、爆笑はできない。音楽の夢を見失った自分がかわいそうで。おそらく、当時好きなバンドがいたから、その人たちと仕事がしたくて、上京に東京した状況。でも、世界は甘くはなくて、西武柳沢駅から新宿駅まで通学して四日もしないうちに、カルチャーショックを受けたんだ。そういえば長渕剛も好きだった。でも、音楽の専門学校ではそれをダサいとバカにされて、郷に入れば郷に従えで、黒歴史へと自動変換された。ビートルズを聴き始めたのは専門学校へ行ってからだ。ボブ・マーリーもストーンズも東京に行ってから、必死に聴くようになった。J-POPはダサい人が聴くものと認識して、それから10数年は、まるで聴かなかった。それくらいの文化的衝撃。
それでも、音楽を自分のモノにするには、まだまだ時間が必要で、18歳から30歳くらいまでは音楽好きを自称するには恥の多い人生を送っていました。あれだけJ-POPを軽んじていたのに商業音楽誌の編集をやってたりしてトチ狂っていた。新譜レビューも偉そうに書いていたっけな。死ぬほど書いたな。ろくな知識もなかったくせにな。ギターの≪g≫の字も弾けなかったくせにな。今思うと恥ずかしくて、申し訳なくて、顔が真っ青になるね。
ようやく音楽の未来を自分の手の中で掴んだのは、31歳くらい?! 好きだったつもりの人を、長野に呼んでライブをやってもらったんだ。吉野寿さんというバンドマンで、ペンネームを≪なかがわよしの≫の名前に決めたのは、吉野さんを尊敬していたつもりだったからで。それくらい好きな人だったけれど、ライブを企画して実行したことで、初めて大好きだと大きな声で言えるようになったと、自信が。行動なき理論は死。続けて同じくリスペクトしていた向井秀徳さんにも長野でライブをしてもらった。そんな経験が本当の音楽を愛することを許された気がする。そのほかにも音楽イベントを企画したけど、あの2本がわたしのルーツ。だから実は生まれてから、わたし、15年しか経ってないことになるね。それまで何してたんだっけ?! 野球をしたりバスケをしたりスケボーしたり、そして恋をして生きてたな。まだあの頃は生まれてもいなかった。人生の底に深く潜っていたんだ。
そんな海底から浮上したのは、15年前だから、そういう意味では、わたし、まだガラスの十代。青春だな、青いな。自分が思っていればいつだって青い春だ。すばらしい日々。すべてを捨ててわたしは生きてる。なんつて。
そろそろまじめにまともな文章を書こうと思ったが、どうせ誰もこのコラム/エッセイを読みはしないから、好き勝手に書き散らかしてやる。本当の十代だった頃、チェリーボーイだったわたし。いや、ギリ、成人する前にしたんだっけかな?! 記憶は定かではないが、Kちゃんと初めてしたのは、昼間だった気はする。はっきりと耳にこびりついているセリフは「初めてなの?!」と事後、Kちゃんに少しコケにされたことだった。カッとなった。手は出さなかったけれど。それから何回か体を重ねたけれども、あの≪初めて≫の瞬間に、恋は終わったんだった。儚いな恋、脆いな恋心。本当なら高校の時に付き合ったSちゃんと、初めてを経験したかっただなんて、今さら。卒業と同時に離れ離れになって、一方的に別れを告げられたんだ。多分、ダメ人間なわたしに幻滅したんだと思う。おそらく30年近く経った今のわたしは、もっとダメになっているから、再会しても幻滅させるんだろう。カッコいい記憶になってれば良かったけれど、それはない。Massive Attackをようやく聴けるようになったけれど、もう手遅れ。
野球少年から音楽家を目指した道を、もう歩くことはないだろう。振り返るな、振り向くな。ただ十代のピュアさにはいつまでも憧れる。デニーズでGODIVAのチョコレートパフェ食ってる場合じゃねえよ。ただ原稿用紙を埋めるためだけに、無駄に言葉を書き連ねる。言いたいことなんてない。伝えたいことなんてない。短気だった十代の頃に、カッとなって重大な事件を巻き起こさなくて良かったなー、狂人だから。短気で根気強く生きたあの時代を、誇りに思う。だからあの頃の夢をさっぱり忘れてしまったことは、意外にも寂しい。時間は取り返しがつかないし、そもそも、≪過去≫なんていう概念は存在しないんだよ。カッとなる前に、それを認識して今を生きろ。
〈了〉
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