余白から生まれるもの

住人

今この記事を書いているのは台風19号が通り過ぎた日。

なぜか。単純。暇だから。正確には”暇になった”から。

もともとはもう少し後でいいかなーなんて思ってたんだけど、この台風で自分の家は大丈夫だったけど学区では被害があって、大会は中止、部活もなし、さらには明日予定されていた大会、さらにその翌日の学校も休み。

急に予定が、ぽっと空いてしまった。

そんな時に意外とやることってないんだなーと実感。普段は「あれしなきゃ」「これしなきゃ」と、「To do」に追われるばかりだけど、いざそれがなくなるといかに自分が「無」かを思い知る。

しなきゃいけない授業の準備もあらかた終わったし、やらなきゃいけないことはあるけど今度学校行った時でできるし。普段やることに追われるときにする趣味のDVDも見たし、本も読んだし。こんな時に限って趣味のランニングをしようにもけがしているし。

そんなときにこのおどりばをじっくり読む。正直、ほかの人がおどりばにかけている熱意に比べてぼくのなかでの優先度がそんくらいになっていて申し訳ない気持ちもあるが汗(何に対しての申し訳なさなのかわからないけど)

でも、確かにぼくにとってこのおどりばはある意味、そんな「To do」とも「趣味」とも外れた場所にある数少ないもの。

そんな「To do」以外の、紙面でいうところの「余白」の部分のおかげで今その「余白」について考える機会と時間に恵まれた。











「人はみんな成長したい」という気持ちを少なからず持っているのではないだろうか??






今「余白」の中にいる自分が自分に「自分は今自分の力を伸ばそうとしているのか???」という問いがある。

学校、という空間の中でこどもたちは「勉強」に「部活」に、自分の能力を日々伸ばしている。そして「教師」である私もそれを促し、手助けしている(つもり)。

でも、そんな促し、手助けをしている「自分」はどうなんだ???


自分の専門教科の教養を高めているのか??

いつも「もっと話せたらな」と思っている英語力を伸ばす努力をしているのか??

受け持っている専門出ない部活のスポーツを自分自身ができるようになろうと努力しているのか??



答えはすべてNO。

「授業力」という力は日々鍛えているかもしれない。でも、先のようにそれもある程度で分切がつく。さらにそこから授業力を磨くこともできるだろう。実際、教育の世界では「授業研究」という名で研究会が盛んにおこなわれ、先生方は「授業力の向上」にいそしんでいる。それはもちろん大事だし、なければならないことだと思う。でも、どこかその目的が教員にとって伸ばせる能力がそれしかないからなのではないか、と思ってしまう自分がいる。そしてその「能力の向上」が本当にこどもたちのためになっているのかわからなくなっている自分もいる。

いけない、話がそれてしまった。

つまり、人は「To do」から解放され、娯楽もある程度し終わり、あまりにもすることがなくなり、環境的、時間的、精神的「余裕(余白)」が生まれたときに人は「自分の何かしらの力を伸ばしたい」という気持ちが沸き起こるのかもしれないなー、なんて自分自身の現状を顧みて思う。




ということで、話は戻ってきて今。ぼくはこの「おどりば」でこうして記事を書いている。これはぼくにとって「余白」。これはぼくにとっては授業力を向上させることにも、ましてお金にもなるわけでもない。でも、





そのおかげでもしかしたら文章力がつく??


もしかしたら「余白」ということに関して考えたことが自分を形作る何かになる??





正直わからない。











また話は変わって、かつてぼくは、ぼくの大学の先生(ぼくの専門の数学の)にこんなことを聞いたことがある。

「数学(算数でなく)ってなんのために学ぶんですか、とこどもに問われたときに先生なら何と答えますか」

と。

そのとき先生はこういった。

「価値がないからやる意味がある。」

正直よくわからなかった。今もたぶんわかり切っていない。でも、今思うこと。よく数学を学ぶことで「考える力がつく」とか、ほかの教科の学習によい効果がある、といったことも聞いたことがある。でも、そうした「実益」はなくて、「必要ないこと」だから、ゲームのようになんのためにもならないけど、楽しい、という側面があったりする、ということなのかなと思う。

正直ぼくはこの「余白」というものが苦手だ。今までも、そして今も「学校」という空間にいれば自然と「To do」に追われるから。そしてそうした「追われている状態」は、考えなくていい、という意味で「楽」だから。

今こうして「思考」しながら得意でもない「書く」ということをしている。それも「やらされる」わけでもなく。目に見える実益や価値はないけど、「余白」になにかを書き加えようとすることで、自分にとっての「何か」を得られるように、そしてそれが「成長」につながることを願って。ぼくにとっておどりば、という空間は今後もそんな「余白」でありたいし、ほかにも同じような「余白」を持ちたいなと思う。





そして、話をすり替えてるけど、英語も、教科そのものの勉強もしなきゃな、と思う。

台風過ぎたりし日に考えることです。

あかっぱ

よく中学生に間違われます。「見た目はこども、中身もこども」な25歳です。

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