Only social’s Sarami
3か月ほど前と比べて、自分に苦しめられることが減った。
自己肯定感めっちゃ低い…どうすれば高くできるの…?
自己承認欲求満たされない…評価がほしいよ…
誰も自分のことなんてわかってくれない…生きづらいな…
自分を必要としてくれる場所はどこ??
自分なんていなくてもだれも困らないし。
自分の気持ちなんて誰もわかってくれない!!
これらの重い思いがこんこんと湧き出て、呪いとなって、自分を押しつぶしていた。
あふれ出る想いを抑えきれず、人に想いのたけをぶちまけて「お、おおう…」と引かれ、スー…っとフェードアウトされたことも何度もある。
そりゃそうだろう。
自分だって自分のこと面倒くさい。他人からしたらなおのこと。
「さらみさんは、自分のことをわかってくれる人をずっと探し続けるんですね」
数年前に、疎遠となった方から言われた言葉がずっと頭から離れなかった。
自分に向けられた矢印が、矢じりとなり、自分の胸に突き刺さっていた。
ところがある時を境に、パタリとそんな苦しみはなくなった。
きっかけは、前回の投稿 忘れかけていた「冷たさ」からだった。
ざっくり簡単に言うと、お花畑に片足突っ込んで引き戻されたお話だ。
生まれつきの持病を持つ僕は、今まで何度も死にかけてきた。
そのたびに戻ってきたが、今回はその最たるものだった。
そこで今までモヤモヤしていた”何か”が問いとなって語り掛けてきた。
「生き残った後、自分はどう生きていけば良いんだろう??」
生き残って戻ってきたとき。
社会に「普通に見える病気のある変な人」として紛れ込んで生きていくときに、社会での僕の役割、役目ってなんだろう??
生きづらい社会。
こうなってくれたらうれしい。生きやすい。
そういう願望はある。
生きやすい社会になったとき、僕はそこで幸せに生きたい。
「自分にとっての幸せって何だろう?」
最近よく行ったりやったりしている、哲学カフェでの対話で「幸せは気付くものか、築きあげるものか」というテーマで話したことがあるが、その時は自分の幸せを考えることはできなかった。
好きなことをしよう。楽しいことをしよう。
最近よく聞く言葉だ。
でも、本当にこれでいいんだろうか?
好きなことがなくて、楽しいことがわからない人は幸せではないのか?
好きなことばかりしていては、生活ができないじゃないか、という意見もある。
それなら好きなことを仕事にすれば良い。
好きなことが仕事になって、損得勘定や義務になったら好きなことが好きじゃなくなるぞ。
云々カンヌン…複数の脳内意見が交錯する。
なんだ、苦しんでるじゃないかと思うかもしれない。
でも、これを考えているときの自分は、なぜかニヤニヤしている。
余裕があった。
自分のことを考えている自分に、余裕があったんだ。
今までこんなことはあまりなかった。
何か失敗したときは、すべてを自分のせいにしていたけど、それで解決できたことなんてあまりなかったと思う。
ただ、いまは自分と自分の間に「社会」が入った。
自分だけの意見じゃなくて、今の世間の意見や、自分以外の人の意見や考え方。
自分と向き合いながら、足元を見る。
自分が半歩踏み出せるその先を、その目で、足で確かめながら。
これからの社会をつくるために。
僕は、確実に変わってきている。
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