姉ちゃん

住人

 

今年に入ってから 夢を見ることが多くなった。

以前は週に1回見るか見ないか程度だったのに対して、この1月は2~3日に一回のペースで、うっすらと膜を張った程度の記憶を残しながら、現実に目覚める。

大筋はほとんど覚えていない。「学校に遅刻した」とか「なんか怒られた」とか、残っているのはそんなもんだ(だいたい嫌な感じ)。話の流れも整っていなくて、ぜんぜん違う仕事をしていたり、芸能人とか出会ってもいない人と一緒にいたりする。(書いていてうっすら思い出したけど、初夢は謎のテーマパークで遊んで死ぬ夢だった気がする。おそらく視聴していたゲーム実況の影響。)

現実では起こり得ない奇想天外に遭遇したり、もう巡ってくることのない過去を回帰したり。それらは間違いなく僕の脳内を泳ぐ記憶や情報をもとに紡がれた物語であって、僕の意思と反して(もしくは意思をありありと投影して)、勝手に瞼の裏で上映される。なぜ、僕は僕にこれを観させようとしたのだろう。期待?願望?後悔?恐れ?その意味を強く考えさせられる夢に、ときとして出会う。

以前、父の夢を見たことを おどりば でも書いた。見た理由は僕自身にもわからない。けれど、家庭ができたり子を育てる日々を経て、言語化されないながらも生まれた感情を自分自身に伝えようとしていたのかな、なんて、勝手に解釈している。

前置きが長くなってしまった。さて、このたび見た夢は、いったいなにを伝えようとしているのだろう。この文章を書いている時点でも、よくわからない。意味などないのかもしれない。けれど、振り返らずにはいられなくなってしまったから、夢の素材であろう過去を振り返りたいと思う。

 

 


 

 

僕には ”姉ちゃん” がいました。
血は繋がっていません。正確に言えば ”姉ちゃん” と呼んでいた人 です。

彼女がいなかったら、僕はいまのように生きていないだろうし、おどりば もなかったかもしれない。僕を、僕らしくしてくれた方です。

 

 


 

 

僭越ながら、現在の活動やそれに紐づく考え方をお話しする機会をいただくことがあります。そうしたときには必ず、学生時代にもらったこの一言を紹介しています。

 

「学校は狭い場所だから 外に出ていきなさい」

 

学校という集団活動が苦手で、そのなかでどう生きるかを考えて、無理をしていた時期がありました。自分がこの場にいる価値に自信がなくて、肩書をつけることで仮初の安心を得ていたのだと思います。でも、そうしているうちに自分がよくわからなくなってしまいました。

明らかに顔色が悪くなっていった僕を見て、みんな心配してくれました。だけど、弱さを吐き出したら崩れてしまうと思っていた僕は、ひたすらに「大丈夫」の3文字を並べ続けていました。

そんな頃に僕を誰よりも心配してくれて、鉄壁を誇る「大丈夫バリア」を壊していったのが、のちの ”姉ちゃん” 。先の言葉もまた、”姉ちゃん”からいただいたものです。この一言をきっかけに、僕はほんのすこしずつだけど、自分がいま在る環境に囚われない考え方を身に着けていって、そしてその考え方のもとに、日々を過ごしています。

 

あのとき「大丈夫バリア」を壊されたからこそ、いまこうしているわけだけれど、そんなパッと変われるわけはなくて。むしろ、ずうっと蓋をしていた感情が溢れ出したせいで、もっと自分がわからなくなっていきました。僕は誰なんだ。なにがしたいんだ。なんで生きてるんだ。カオスと向き合う日々が始まりました。その過程にも、彼女はとことん付き合ってくれました。

まだまだ彼女以外には「つらい」とか「苦しい」とか言うことができなくて、駄目になっては真っ暗闇の部屋で布団にこもりながらガラケーでSOSのようなメールを打っていたのを思い出します。当時の僕にとっては唯一ちゃんと弱みを見せられる人で、「話したい」と自分から声をかけられる人でした。と言っても、まだ全然自分がなに考えているか言葉にできなくて(いまもそうだが)、沈黙が多かったけど、それにも付き合ってくれるのが、僕にとって安心で。どんなに僕が駄目であろうと、僕を励ましてくれたり応援し続けてくれました。人と距離を置きたがる僕が”姉ちゃん”と呼べるほどに。

 

 


 

 

そんな”姉ちゃん”とも、卒業とともに会う機会が減っていきました。いまでは連絡もとっていないし、かれこれ数年会っていません。だからなぜ、夢を見たのか不思議でした。振り返ってみたけれど、いまもよくわからない。夢は解釈次第であって、実のところ意味など持っていないのかもしれません。でもせっかくなので、いま思うことを。

 

長いあいだ「僕は”姉ちゃん”になにもできなかった」と思っていました。彼女も多くを抱えているのをわかっていながらも、彼女の「大丈夫バリア」は壊せなかった。でもそれは僕のエゴでしかなくて、別に僕に開示する必要などなくて。僕は一方向的に”姉ちゃん”という存在が必要だった。これには当時から気づいていて、僕が人から悩みを聴く上で意識することのひとつになっています。(無理にこじ開けようとせず、時間をかけて、話せる範囲で、話せる人に話してもらって、自分はあくまで鏡となる)

では僕は、”姉ちゃん”になにもできなかったのだろうか。そうじゃなかったのかもしれないな、と、このたび夢を見て気づいた気がします。僕が彼女にできたこと、それは、「”弟”であること」だったのかもしれません。彼女にとって”弟”という頼られる存在が必要だったのかもしれないと、時間の流れとともに感じるようになりました。本当に身勝手な解釈に過ぎませんが。ただ、この考えに至ってすこしだけ救われたような気もします。

 

 


 

 

はじめて”姉ちゃん”のことを書きました。勝手に色々書いてしまいすみません。こうして振り返ると、支えてもらっただけではなくて、本当に多くのことを教えてもらい、いまの僕に染み付いていることに気づきました。相変わらずうまく伝えられないけれど、あの頃の僕を肯定してくれて、本当にありがとうございました。また、お話したいです。

 

 

ハタコシ

おどりばの大家です。深層の想いをともに捜しに。

プロフィール

関連記事一覧

  1. この記事へのコメントはありません。