十字交差地点癖
十字路には、縦の道と、横の道がある。
縦の道には、あちら側とこちら側があって、横の道にも、もちろんあちら側とこちら側がある。どちらに立っているかによって、あちらとこちらは簡単に入れ替わるわけだけども、その交差が行われるのが、十字路である。
こちら側からあちら側に向かう時に、横の道が通っていたら、右や左がちょっと気になってしまうこともあるのではないか。自分の目的地がこの道の先にあるとしても、時に右に曲がったり、左に曲がったりしてみたくなる。ただの好奇心旺盛だからかもしれないけど、不思議なことで、その道を曲がったときに、目的地がその時点で変わってしまうことがある。元いた道の先に目的地があったにもかかわらず、また新たな目的地ができてしまう。
そう、それが、他ならぬ私である。
一つのことを追っていくと、その付随したさまざまな要素に、いたたまらなく魅力を感じてしまう。というよりも、いろいろなことができる人に、ただただなりたい、という根底の想いがあるのかもしれない。
中学や高校の頃、勉強もできて、運動もできて、話も面白くて、性格がいい、なんて人がいたのは誰しも経験があることだと思う。でも、その人たちがそれぞれについて思い切って努力していたか、といえば、頭をうまく使ってどの物事にも応用していた、という風に言った方がしっくりくるような気がする。僕も、ただそれになりたい癖がある。
ただ、僕の場合、それぞれ向いた方向にまた新たな興味が向いて、ある程度知った段階で、違う要素が頭に入った瞬間、またそちらに気がむいて、ゼロからスタートしてしまう癖がある。とても厄介な癖。
あるゴールを求めていたのに、またその先々でゴールが変わっていくから、究極のところ、何者にもなれていない。何者になるか、というテーマについては、ほかのおどりば住人たちも触れているテーマだけれど、何者にもなれていないもの、それこそが私なのだとおもう。
人生は一本の道に縛られた苦しいものではないことは、ようやくわかってきたような気がする。でも、選択肢が多すぎて、僕はいく先々の十字路で、新たな道を選び続けてしまっている。いろいろなことを経験して、いろいろな体験を経て、僕という確固たる存在になりたい、と思っているけれど、その癖が治らないと、なかなか芯のある人間にならないのではないかと、不安になるお年頃でもある。
そして、右に曲がらなかったことを後悔するときもしばしばある。左に行けばよかったかなあ、と思うことだってある。後悔癖。よくないことだってわかってる。けど、どちらかというとマイナスな後悔よりも、その先にある自分の新しい可能性に出会えないことが残念だなあ、という思い。もちろん、行った先でまた曲がって、本来そこで曲がっていたら経験できたことを体験できるかもしれないけど、それを経験するタイミングによって、その先にある十字路がどこに続くかが変わってくるわけで、その機会ロスに心がいたたまれなくなることがよくある。
多分、自信がないことが全ての引き金だってことはわかってる。自分が自分のことを信じてあげることができたら、どの道を選んでも、正解になる。逆に、どの道を選んでも、自分が常に疑心暗鬼なら、自信のない人生を常に送ることになる。たとえ、そこで何かしらの結果を残したとしても、またな仮の自分の姿を想像しては、あーこうだったらなあ、と思ってしまって、きっと常に不安だったり、満足できなかったりするんだろうな。
けど、その見えない可能性を妄想して、あれやこれやと考える時間、実は好きだったりする。だって、その間だけは自分がこの世界で自分を思い通りにできる瞬間だから。自分の実際の人生でそれをしようとすると、おそらく一生が足りない。欲を言えば、何回も人生を経験したい。十字路で道を選び放題。面白そう。そうなりたい。死にたくない。何回でも生きたい。違う人生を歩みたい。
そんな癖があるけれど、実はなんだかんだ毎日を楽しんでいる。後悔しながらも、先が見えない毎日を、実はワクワクしながら待っているんだ。自分が思っている未来がしっかりしていれば、どの道をどのように行っても、目的地に到着できることも、実は知っているから。それを知っていながら、動けない日々が続き、また悶々とすることも多いけれど。そして、そんなことだから、十字路交差地点での癖も、まだまだ治りそうにもないけれど。そんな自分も、嫌いじゃなかったりする。いつまでも好奇心を失わないのも、面白い人生だと思ってみる。そこに信念がもっとついてくればなおいいだろう。
十字路癖と、うまく向き合っていければいいな。
(先月はお休みをいただきました。ありがとうございました。)
10号室、t tatsuより。
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