死をとらえる
「ちょっとタコあげるんじゃけど、手伝ってくれん?」
おどろおどろしい深緑をした江の川のほとりに立ち、僕はキョトンとしていた。
広島出身のS氏が、この場所で凧揚げをすると言い出した。
2月10日。
もう正月はとっくに終わっている。
彼に言われるままに、凧を両手に持って水平に掲げる。S氏は風上に向かい、数メートル離れたところで紐を持ち、待っていた。
風を読み、「今じゃ」の合図で二人とも走り出す。僕は走りながら手を離し、凧は空へと舞い上がる。
…かと思いきや、なかなか上手くいかない。
何度も何度も同じことを繰り返し、なんと数日目に1回だけ、やっとうまく飛び立った。S氏はぐるぐると走りながら紐を調節し、高く、高く、凧は昇っていった。
その凧には、小型のカメラがついていた。彼は、個人向けドローンが流行る前から、このような空撮を楽しんでいたのだ。
僕は島根県の美郷町という小さな町で二週間過ごした。
21歳の頃だ。
大学3年生最後の試験を終え、早めの春休みに入り、東京から、出雲縁結び空港に降り立った。
中国地方最大の江の川で毎日カヌーをするために移住をしたというKさんと、元陸上自衛隊員のHさんが駅まで車で迎えに来てくれた。
美郷町では地域おこし協力隊のインターンに参加した。インターン生は僕とS氏とM氏の三人。三人はそれぞれに個別のトレーラーハウスが用意され、その中で寝泊まりをした。
夕飯は必ず三人一緒で、誰かのトレーラーハウスに集まって「山くじら」という猪肉の鍋を食べた。インターン最後の日は僕のトレーラーハウスだった。M氏が「最後だから」とギターで一曲披露してくれた。何の曲かは忘れたが、とにかく、三人でお酒を飲んだ。
最後の日に、それぞれの想いをたくさん話した。
僕はつぶやいた。
「自分がどうなりたいのか、自分の好きなことや自分ってどんな人なのか、良くわからないんですよね」
僕は来年度から大学を1年休む。どうしても世界中のいろんな人の暮らしを見たくて。
確かに目の前にやりたいことはあった。
しかし、「将来」という目線で自分の生き方を考えようとすると、そこには確固たるビジョンは何もなかった。
S氏は凧揚げができる。M氏はギターができる。ここで働く人たちは、自分はこれが好きで、こんな生き方をしたいという想いを持っている人ばかりだった。
彼らと接すると、僕は自分と比べて思い悩むのだ。
M氏がポツリと言った。
「死をどうとらえているかが、その人だ」
人の生き方は、自分の死をどう捉えているかがそのまま反映される、という。
僕は、大学に入ってから2度、遺書を書いたことがある。
2012年と2013年の冬である。どちらも、旅に出る前だ。
旅に出ることは、自分の中である意味死を受け入れることだった。野垂れ死ぬ、撃ち殺される、飛行機が墜落して死ぬ。中途半端に想定して受け入れていた。
寮の部屋の机で書いた遺書は、幼稚園から高校まで一緒だった友人に預けた。出国前のサシ飲みで「もし僕が死んだというニュースが流れたら、開けてくれ」そう話して封筒に詰めた遺書を渡した。
遺書は、自分の想いをぺらぺらと語ったもの、そして、家族や友人、これまでお世話になった人たちへ向けた1枚1枚の手紙形式のものを書いた。
遺書を書くと、不思議と心が落ち着いた。
自分の中に抑え込んでいた気持ちを、この際だからとすっきり洗い出すことができた。
そして、自分は、どんな人に対しても感謝の気持ちがあるのだと知って驚いた。
これまで出会ったすべての人に、些細なことだとしても、心の底から「ありがとう」と思えた。
それがたとえどんなに憎たらしい奴でも、だ。
自分がいざ死ぬとなると、他人を許せてしまうのだ。
ああ、
人は、自分の死を受け入れることで、他人へ感謝ができるのだな。
人との出会いは奇跡であり、
今この瞬間も二度と訪れない時間であり、
それに対する有難みを、僕は強く感じることができた。
「死をどうとらえているかが、その人だ」
そう言われたとき、自分は自分なりに自分の死を真剣に考えているかどうかを問うた。
僕は、死にたいと思ったこともあるし、生きていてよかったと思ったこともある。そして、今は「死ぬことは、仕方がないこと」ととらえている。
死をどのようにとらえているかは、人それぞれだ。
しかし、死を自分の中で意識して生きているかどうか。それが大切なのだ。
将来が見えていなくても、自分のことがよくわからなくても、死を意識している人は、確かに生きている。
かつて美郷町に存在した三江線の線路の写真を見つめる。
廃線となった今も、記憶とともに路は残り続ける。
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