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偽物の「生きづらさ」に奇異の眼差しを リアルな「生きづらさ」に真摯な眼差しを

住人

「生きづらさ」という言葉をいろいろな場面で目にするようになった。

『「生きづらさ」を抱えている人たちはたくさんいます。』

障がい、不登校、引きこもり、病気、性的マイノリティー、相対的貧困、被差別、犯罪被害者、古い因習・慣習の下で暮らす人たちなどなど…。(ここで列挙したものは一例であり、あくまでカテゴライズされ、つくられた言葉上のキーワードにすぎないけれど)

様々な団体や個人が、大小のネットメディア、SNSなどで「声をあげている」。

FacebookやGoogleでキーワードを探せば、世界中24時間365日、彼ら彼女らの「声」やインタビューした記事に出会うことができる。

今までそこにあったのに気づかれなかった。
いわゆる「声なき声」にスポットライトがあたるようになった。
歓迎しない声はあまり聞こえてこないし、実際に喜ばしいことなのだと思う。

だけど、違和感を覚えることもある。


「普通じゃない」を「普通」に。

「少数派の人たちにとって暮らしやすい社会は、すべての人たちにとって暮らしやすい社会」です。

「昔はそういう人たちいなかった?今はそういう時代じゃないんです!」

これらを見聞きするたびに、頭の左斜め前あたりがムニャムニャして、時には痛みさえ起こる。

マイノリティーは、マイノリティー(少数派)であるからマイノリティなのに、マジョリティー(多数派)になろうとしている。

声が上がるほどに注目され、社会変革にまでつながっているマイノリティは、もはやマイノリティではないと思う。
それはそもそも元からそこにあったもので、環境やら情勢やらが、名刺の肩書になり得るキーワードを得て、経て、舞台に上がっただけのことだ。

「生きづらさ」という言葉は、すべてを内包してしまっている点で非常に暴力的な言葉だ。


今までなんとなく感じていた貴重な「違和感」
表現の可能性が無限にあった「モヤモヤ」

それらをこの言葉は簡単にぺちゃんこにしてしまう危険がある。

「枠」をつくってしまうからだ。

空っぽにしたはずのリュックを振ったとき、何かコロカラと音がする。
いろいろ考える。

小石かな?鍵かな?コインかな?チャックの切れた部品かな?

だけど、そのコロカラを「異物」と認識した瞬間、いろいろ考えたモノが「異物の〇〇」になってしまう。

言葉の問題ではないのかもしれないが、言葉の問題だ。

例えば、障害の「gai」を漢字にするか、ひらがなにするか、旧漢字にするかという問題。

たかが表現の違いじゃないかという人もいる。

言葉には意味があってそれぞれの考えがあるんだという人もいる。(害は負のイメージがあるというのが典型)

そんなんどうでも良い。大事なのは表現ではなくて中身だ。中身が伴わなければいくら表現に気を遣ったところで意味はないという意見もある。

ちなみに「総務省の「ホームページのバリアフリー化の推進に関する調査結果の要旨(HTML版)」では「障害の表記は、音声読み上げソフトで正しく読み上げさせるために、ひらがなを用いずにすべて漢字で記載しております。」とある。

どれも間違いではないし、どれも正解ではない。

ただ、当事者や経験者含め、その人のことを考えているという人ほど考えていない、考えが及ばない、ということはそれほど珍しいことではないのかもしれない。

僕は以前、ある団体とかかわったことがある。

「生きづらさ」を認めてくれると評判のところだ。
実際そこでは多くの人たちが「認められ」「救われ」てきている。

でも僕が認められた「生きづらさ」は、病気というメジャーなマイノリティだけだった。

「好きなことを見つけ精一杯楽しみな」
「1人でいる寂しさを嘆くより、1人でできることを見つけて熱中すると良い」

「好きなこと宗教」が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)していた。

確かに、今まで認められなかった自分の好きなことを認めて欲しいという人たちにとっては、天国みたいな”居場所”だと思う。

だけど僕は徐々に、頭の左斜め前あたりがムニャムニャし始めた。
「好きなこと宗教」の教祖様を崇める人たちが、とても浅ましく見えてしまったからだ。

今はもう直接的な交流はなくなったが、今でも救われている人たちは居続けているし、応援している人たちも増え続けているのだと思う。


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「生きづらさに本物も偽物もないだろ」と言われるかもしれないが、僕はあると思っている。

今をのさばっている「生きづらさ」は偽物だ。
正確に言うと「本物から偽物に押し上げられた」ものだが。

かつてのマイノリティが辿ってきたのと同じように。

もっと昔からあった皆が背を向けてきているものがあるはずだ。
メジャーなマイノリティではない。
昔と名前や場所を変えて、今でもその場にいる。
昔よりむしろ今の方が彼らにとって非常に「生きづらい」。

「アンチ」と呼ばれる人たち。


時代の流れに取り残され、行き場をなくし、人と人とのつながりから取り残されやすい対象。
どの年代でもいるが、多分若い人たちに多いのだと思う。肌感覚だが。

最近ではこの言葉、意味が変わってきてしまっている。
語源は「antipathy」(根強い)反感,毛嫌い,相容れない性質,性に合わないこと、の意味だが、今では「特定の対象を攻撃する」悪の対象とみなされてしまっている。

中には以前、「特定の対象」の活動などを心から応援していた人もいると思う。
でも自分は認められないんだと感じてしまったら。そこにいる意味をたちまち失ってしまう。

ブロック機能というものによって、「ないもの」とされてしまっているアンチ。だけど確実にそこにいる。

「彼らのしていることは普通じゃないから批判されても仕方ない」
「自分勝手なことをして自業自得なのに、何故とりあげないといけないのか」

かつて同じ言葉を言われた元マイノリティであってもこの言葉を使う。
それがいかにも「普通」であるかのように。

一方で、そう思ってしまう気持ちもわかる。
実際、アンチからストーカーや脅迫などの犯罪につながったこともある。
怖がるのは無理もない。

しかし、それを言ってしまったらおしまいだろうとも思う。
「精神や知的に障害がある人たちが地域を散歩するなんて何をするかわからないからやめてくれ」
「あのうちは貧乏だから、近くの家の泥棒やったんだろ」
日々懸命に「支援」している人たちは、それらの声に「丁寧に」説明をしてきたはずだ。
「障害を理由に彼らを差別しないでください」と。

アンチは、今の、そしてこれからと言われている社会の犠牲者であり、予備軍でもある。
それらが引きこもりや精神病といった、現在社会的に問題となっている状態にまで発展しない限り、誰も手を差し伸べない。そしてその時に手を伸ばしても手遅れだと僕は思う。
アンチを見つけることは難しくないが、アプローチをかけるのは難しい。
誰も支援の、サポートの、手を差し伸べる対象だとみなさないからだ。

本人の性格、性質の問題と片付けられてしまっているからだ。

誰でもなり得るし、多くの人に忌み嫌われる。
ボタン一つで簡単に忘れてしまえる。そこまでにいくつかの葛藤があったとしても、だ。

彼ら彼女らにスポットライトが「確実に」「真摯に」あたらない限り、本当の生きづらさは永久に見えてこないと思う。

sarami

生き意地の汚い人生を 送っています。

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