A journal of the Epidemic
世の中が変わってきて約1年が経った。
『密』が2020年の今年の漢字に選ばれた。
ソーシャルディスタンスという言葉も日常の言葉として嫌悪感を持って定着した。
日々、右から左へとは流れていく情報の濁流になんとかこうとか流されていくうちに、過ぎ去った数ヶ月前のことを忘れてしまう。
「あの時そういえばあんなことあったなぁ」と呑気に想起できるような時のために、ここに覚書として残しておきたい。
ちなみにそれぞれの内容は順不同。
季節があっちにいったりこっちにいったりすることをご容赦ください。
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わからないことが顕在化しすぎた。
頭の中が バラまいたごまつぶみたいになることが多かった。
正解のない答えを導き出す時代、と言われてから久しい。
個人的には元々あった正解とされるものは、幻想であって、今はその幻想が違う幻想に構築し直されてるような気がする。
そういう意味での過渡期なんだなと理解している。
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たくさんの本やたくさんの記事、たくさんの意見を、ほぼ毎日目にするようになった。
芸能人の不倫を見るかのように、今日の東京は、長野は罹患者は何人だと15時以降のニュースを気にする日々。
新しい情報を。とにかく新しい情報を必死で求める日々。
ヤフーニュースのコメント欄やSNSでは、匿名だと思ってからか、到底冷静な人間な言葉とは思えないほどの罵詈雑言が飛び交っている。
だから、あえてニュースは見ず、公的機関の公式な発表のみを見るいう人もいる。
コロナ、という名前は好きだ。
小さい頃宇宙が好きで、図鑑を見ながら太陽のコロナを彷彿させるからだ。
上田には喫茶コロナがあり、佐久には食堂コロナがある。
コロナは王冠の意味。
地元で感染者が出たら「あそこの家の娘から出たそうだ」と噂が流れる。
流した方に悪意はなく、「今日は良い天気だね」ぐらいの気持ちで話題の一環として話したのかもしれない。
「そういう話題はやめようよ」とはとても言いづらい。
果たして、噂を流した人の中で罹患した人はどのぐらいいるのだろう。そして自分や家族が罹患したと知ったとき、どう思ったのだろう。
想像だが、恐怖や不安にとりこまれたんじゃないか…。
初期に感染し「これ以上ここには住めない」と引っ越した人たちもいたという。
そういえば初期の感染者で「俺はコロナだ」と言って意図的に移して回った人も出た。その時のクラブの映像が出回った。後にその人は亡くなったと報道された。この時こそ世間からの「死んで当然」と思われた時はなかったかもしれない。家族や知人のことを思えば胸が痛むが、これもパンデミックの時には起こりうる現実なのかもしれない。
「何を信じたら良いかわからない」
そんな声があちこちから聞こえてくる。
政府への批判も一気に増えたように思う。
SNSや雑誌、ワイドショーや新聞はボロクソに書き立てる。
一般人から知識人、コラムに至るまで。
擁護派は果たして多数派なのか、少数派なのかわからない。
品性の欠片もなく悪口ですらない揶揄がSNS上に飛び交う。
これは風刺なのだろうか。僕は違うと思う。
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お店はいくつ潰れただろう。
いわゆる「対策」をとっていないお店がネットないし、地域からの叩きに合う。
とっていたとしても営業時間短縮や慣れないテイクアウトに慣れるしかなくなる。テイクアウト用品の販売で利益を伸ばした企業もいることだろう。
店頭にはアルコール消毒液が当たり前に並ぶ。
アルコール過敏症の人には「新しき生活様式」は地獄の日々かもしれない。
(やらないと入れない店も増えた。
手が荒れ、ハンドクリームの需要が拡大した。
自分が昔から買っているハンドクリームも売り切れや値上げが相次いだ。
アクリル板が人との距離を遠くした。
レジでイライラする客を見かけたのは一度や二度ではない。
フィジカルディスタンスではなく、そういう意味での社会的距離、ソーシャルディスタンスなのかなと見ていて思った。
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年度早々学校が一斉休校になり、現場は混乱していた。
在宅勤務が可能にもしたが、その時より人数が圧倒的に増えたにもかかわらず、実感として現場は特に昔と変わっていない。(気を遣う場面は増えたが)
何十年後かに、元子どもたちの中で「学校に行かなかった時期があったよね」と疎開を懐かしむかのように同窓会でそんな話題が出るのを、カウンターで一人酒しながら聞きたいものだ。
———————————————————————————————————–コロナ離職という言葉も出てきた。
失業者は一時200万人を超えた。
完全失業率自体は3%程度だが、実感として「失業」という言葉を身近で多く聞くようにはなった。
(完全失業率とは、『仕事をする意欲があり仕事を探しているものの、その時点で実際には就業していない人』を指す。https://www.dodadsj.com/content/201225_total-unemployment-rate/
年末に「犀の角」というところへ寄付をしに行ってきた。
年始に経済的に厳しい人たちのために、炊き出しや物品を渡すことをやっていたからだ。「のきした」という居場所らしい。
日持ちする食べ物が良いか、はたまたティッシュなどが良いか。
迷って電話をかけ、トイレットペーパーやティッシュ(保湿のものも)を幾分か買って届けた。
トイレットペーパーはシングルよりダブルを、ティッシュはビニールの小さめのより箱で大きめのを持っていった。
渡る人は普段から倹約してるかもしれない。僕はティッシュとトイレットペーパーが薄くなったり小さくなったりすると、幸福感が下がる。
そこは譲れなかった。
年始にお邪魔したら、その物品はなくなっていた。
誰かの手に渡ったのだろう。おまけで買ったお菓子たちもきれいになくなっていた。
同じだけのお金を募金箱へ入れるより、よっぽど『寄付した甲斐』を感じられた。
その日はお雑煮を食べたり、話をしたり、久しぶりに楽しい時間を過ごすことができた。
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テレビや雑誌、ネットニュースなどではたくさんの専門家も見るようになった。
コロナ対策政府分科会の尾身茂氏、岡部信彦氏、8割おじさんの西浦博氏、初期によく出ていたテレビに映るたびに衣装の変化に注目が集まりいつの間にか見なくなった岡部晴恵氏、クルーズ船に乗り込もうとした岩田健太郎氏などなど。
マスメディアはこぞって専門家にしゃべらせ、語らせた。
皆が読む本にも影響が出た。
いわゆる「巣ごもり需要」というやつの効果ということらしい。
50年前に出版されたカミュの「ペスト」は一時品切れになり、コロナの話題になる前の13倍もの売上になったとの報道もあった。
全476ページもあって、決して読みやすい本ではないにも関わらずだ。
一体どれだけの人が積ん読になってるんだろうと意地悪く思う。https://xtrend.nikkei.com/atcl/contents/watch/00013/00912/
2011年に発売された山本太郎(政治家ではない)の「感染症と文明」も岩波書店2020年ジャンル別売上新書部門の4位になった。ちなみに7位には1983年刊行の村上陽一郎の「ペスト大流行」がランクインしている。
個人的にはデフォー(ロビンソン・クルーソーを書いた18世紀の人物)の『ペストの記憶』が好きだ。
今回のタイトルも『ペストの記憶』の原タイトル『A journal of the Plague Year』をもじったものだ。
ペストと同じく比較される第一次世界大戦時に猛威を奮った「スペイン風邪(インフルエンザ)」に関する本も出ている。
世界では患者数6億人、2000万〜4000万人が亡くなったとの統計もあり、日本でも45万人が死亡したと言われている。
感染者への差別という面では「ハンセン病」が参考になるかもしれないと思って調べている。
「コロナはインフルエンザより感染者力も死亡者数も少ない」と言う人もいる。
個人的には支持しない意見だが、このような「知ってるコトとの比較」によって安寧を求めようとするのはどうしようもないサガなのかもしれない。
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春にはマスクが消えた。
体温計も店頭から消え、家から久しぶりに引っ張り出した体温計が電池切れになったのに気づき、ボタン電池も売り切れた。
オンラインショップでは高額の値段がついた。政府が規制をし、供給も追いつき、現在では普通に店で買えるようになった。
良き知り合いが、50枚で3000円のマスクを取り寄せてくれ、購入した。
今でも金塊のように持っている。
そして何故かトイレットペーパーも売り切れた。(社会は混乱を起こすとトイレットペーパーは売り切れる。でもしばらくすると戻る。紙類は一定のストックを常に確保しておこうと学んだ)
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マスクをしていない人を見ると、不意に見てしまうようになった。
お店でしていない人を見ると「え!?信じられない」という気持ちが裏に透ける。
そういう自分も街中でマスクをしていない人に向ける視線が前より数秒長くなった。なんなら睨むこともある。
同じ視線が、食事の場でも増えた。
飲食店で酒を入れても入れなくても、ゲラゲラ笑いながらこのご時世に文句を言う矛盾に溢れた人たちを見ると、サッと料理をたいらげ、サッとピッと会計を終えて退店するようになった。
———————————————————————————————————–有名人でも死者や感染者が続々と出た。
志村けん氏が亡くなったとき、家の前で遺骨を持ちながら涙を流す実兄の様子が報道された。危篤時ですらも家族が面会もできず、葬式でも顔すら見られず焼かれる。孤独に隠れなければいけない現状を知った。
岡江久美子氏の時は、家族が突然いなくなるという非日常が一気に近くなった恐怖を知った。
参議院議員・羽田雄一郎氏が亡くなったとき、一番先に手当されそうな議員ですら簡単に亡くなるという、疫病の無差別性を知った。
この人たちが亡くなった時も、やれ「日頃の不摂生が祟った」、やれ「喫煙がいけなかった」、やれ「糖尿病がどうだ」、やれ「タイミングが遅すぎた」。
そういうことを街なかでべらべらと唾を飛ばしながら話す人や、不摂生の塊みたいな生活をしている人がスマホの画面を動かしていたりする。
(1月末、石原議員が無症状の陽性で入院したことに多くの反発が起こった。一般人ですら入院ができない状況なのに!と憤ったが、国民の代表すら入院できない国は終わってると思う)
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イベントはこぞって延期や中止、オンラインになった。
ついていかれない人を一体どの程度置き去りにしただろうか。(自分がやっている哲学カフェも、高齢の方やオンラインが肌に合わない人たちを何人もおきざりしてしまっている。)
テレワークも一気に加速した。
あれだけ「人の顔を見ながらでないと仕事ができない」という人たちが多かった中、数字上ではテレワークに移行した企業は多かった。
電通が本社ビルを売りに出したと聞いたときはとても驚いた。
他方、テレワークができない、むかない業種が改めて明るみになった。
対人関係の業種は、その性質上実際に人が動かないと始まらない。
形を変えて、と体よく言うが「やむを得ず」が正しいのだと思う。
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制限されることが増え、「コロナが落ち着いたらね」が合言葉になった。
会いたい人だけど、本当に感染拡大防止のためなのか、はたまた…。
「終電なくなっちゃうから」に次ぐ、いかにも理由を含んだお断りの定型文が出来上がったのは興味深い。
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「なんという世の中になってしまったんだ。」
嘆く言葉をあちこちで目にし、耳にする。
けど、個人的にはこの感覚はあまり強くはない。
今まで生きづらさ(この言葉を使うのはあまり好きではないが)をあまり感じていない人からすると、常日頃感じている感覚そのものが異常で、そこに偶然とはいえ、顕在化された問題をひっさげた社会がようやく追いついただけ、と思っているからだ。
今まで考えもしなかったことを改めて考え直す、ということは病院の天井を眺めながらやり尽くした。(何度も悪循環に入ったかもわからないが)
僕にっては、なんら変わりない日常だ。
視覚障害のある人が、停電下で慌てふためく健常者を目の前にして「これだから日ごろ見えている人は」という逸話を聞いたことがある。
この感覚に近いのかもしれない。
本気の上から目線であり、ドヤ顔だ。
常に不安定な精神状態の中にいた自分からすると、不安定が日常だった。
足を止めて考える機会が自粛生活などで「今まで何やってたんだろう」とか、「今までの生活や人とのつながりを改めて考え直す機会になった」という。
良い反面、これには副作用がある。
人によっては、死にたくなるのだ。
「わからなさとの対峙」の副作用を知っておかないと、死にたくなる。
もんもんと考え、自分のわからなさに耐えきれなくなる。
繋がりが切れたことのやるせなさ、経済的な家計の悪化やコロナによる家庭不和など自死の理由は様々だと思う。(こういう風に自死をまとめてしまうのも本意ではない)
「わからなさ」は幻想から解き放たれた不安の種でもあるけれど、付き合い方を知れば生涯の友となる。少なくとも僕はそう信じている。
健常者が、人や自分の怖さに気づいた。
これが自分が昨年を通して感じた発見だ。
歴史を知れば知るほど終息(この言葉もモヤモヤする。何を持って終息というのかなど)することに違いはないと思うし、なるようになる。
見えないものに振り回される。
これはウィルスも、「わからなさ」も根本は同じなのかもしれない。
疫病のパンデミックには様々な性質があると思う。
個人と公衆衛生、経済と感染拡大防止。
先ほど自分は「わからなさ」に気づいた人たちが増えた、と言った。
だけどそれは必ずしも正解ではないと思う。
パンデミックは歴史上何度も起こっていて、専門にしている方々によって分析もかなり進んでいる。
実は答えはあるのだと思う。
わからなくしてるだけ。わからなくなっているだけ。
正解がない、という言葉そのものに右往左往してるだけなのだと思う。
だけどそれは、「こうすればこうなる」というものではない。
パターンやフェーズ、条件など判断が必要な状態がとてもたくさんあるんだと思う。
そのなかのどれかを間違えても進まない。
間違えたことが行政の政策であれ、個人の緩みであれ、その他の要因であれ。
パンデミックを抑える方法を、本当に効果のあることはなんなのかを、専門家や政府はわかってるのだと思う。
現在、感染者の98%が普段の生活に戻っている。(1/14日現在の感染者÷(死亡者+重症者))
数で言えば亡くなってる方は基礎疾患のある人や高齢の人だ。
亡くなる人の方のがニュースになりやすいから、インパクトは大きい。
ただ、自分や家族が母数に入ったら、2%がよぎる。
「ああ、死ぬのだろうか」と思う。
なんか熱っぽい、体がだるい…仕事休まないといけないのか…家族は…保健所はつながらない…簡単に入院できないとも聞くし…ニュースでは救急車たらい回しとかも…昨日まで元気だったのに亡くなったという話も聞く…どうなるんだ…
「陽性です」と言われたら…ここに住めなくなるかも…仕事なくすかも…
ないかもしれない、あるかもしれない不安を抱えながら生きていく。
ワクチンの話が出始めた。
もうじき終わる…そう思いながらも、まだまだ僕たちは真っただ中にいる。
だけど、頭の良い人たちはじっと待ち構えている。
人が解き放たれる瞬間を。
人が何に飢え、何を渇望し、何を学んだかを。
参考になるのは疫病の後のことより、戦争や自然災害が襲ったあとの日本や地域なのかもしれない。
https://textview.jp/post/culture/43522(NHK100分de名著 デフォー ペストの記憶の紹介)
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