人生のおどりばに立ち止まるとき

住人

こころが 止まっている
と感じる。

いつからだろうか。もうそれも思い出せないけれど。
大きな声で笑ったり、怒ったり泣いたり、驚いたり、小さなことで喜んだり感動したり、
しなくなった。
感情って疲れるのだ。

はじめは自己防衛だったかもしれない。
あなたはこういう人だねっていう、世間のわかりやすい枠に収めるためのカテゴライズ、レッテル貼りをされたくなくて。
傷つかないために、傷つけられないために
なんでもないふりをして、いつでも健やかであるふりをして。
それが本当になればいいとも思っていた。
醜い感情や諍いのない平和で調和の取れた、綺麗事でしか語られないような世界を
本気で望んでいたから。

装って生きていくのが上手くなった。
なにより社会ではそういうものを求められていたし、当たり障りなく誰とでも上手くやれるほうが重宝された。
自分自身も無用な深入りをされたくなくてうわべだけの付き合いを望んだ。
ある意味平和だった。波風の立たない毎日は
多すぎる人や情報の中を泳ぐには
アンテナの感度を落とした方が生きやすかった。
それなりに満足に動ける身体があって、望む形でなくても仕事があって、決して裕福ではないけれどお金があって、毎日食べるものに困らず雨風凌げる家があり、なんて有難い、なんて幸せなのでしょう。
わたしはじゅうぶん恵まれている。きっと恵まれすぎている。だからわがままも不満も持つべきではない。

そうやって、たぶん、
内なる声 を
意識的にも無意識的にも無視し続けた。

けれどふと気付いたときには空っぽで
何も期待せず多くを望まず、山も谷もなく、張りがなく単調で、消化試合のような毎日は
とても味気ない。
自分がどんなものを好きで嫌いで、何が心地よいとか何を望んでいて誰と居たいかとか
何もわからなくなった。
安定と引き換えに大切なものを失っていく。
はて、その大切なものとやらも疑わしい。
感謝 も 感謝している形 に成り下がった。
考える力も選びとる力も衰えている。
小さな決断すら億劫になって、食事は適当になるし部屋は散らかる、本当に必要なのか怪しいものを買ってしまう。そしてそれにまたうんざりする。

 

 

いや、待て、これ、こんな人間になりたかったわけではない。

努力の先の目標でも、ましてや描いた未来でもない。
こんな現状に甘んじて進んだ先に素敵なことがあるなんて思えない。きっと歪んだ受け取りかたをしたり、無機質な感性で受け流してしまうんだ。
なによりこんな受け身のラッキーが永劫続くわけがない。
わからないなりにこれだけはわかる、これは自分にとっての成功でも正解でもない。

軌道修正が必要だ。
呼び戻すのだ。
まだ何者でもなかった、あの頃の自分を。
動物や植物を愛し、見るもの聞くものすべて新鮮に吸収してよく学び、外界を遮断する壁を持たなかった自分を。
今一度、立ち止まって内省する。
そして再び描きなおすのだ。
どんな自分でどんな気分で、どこに行き、誰と会い、何をして、どんな生き方をして死ぬのか。
歩き出す方向を定めて、ここから。

 

ハロー ハロー 応答せよ
世界と出会っていくために

 

はろ でした。
24号室
これからよろしくお願いします。

はろ

何者でもない わたし と あなた に寄せて。

プロフィール

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  1. あかっぱ

    はろさんの
    「内なる声」に耳を貸しながら、
    すごく内省されてる姿

    ぼく自身にもすごく考えるところあります。

    これからも記事楽しみにしてます!

    • はろはろ

      あかっぱさん、コメントありがとうございます。
      私も一度は教育を志したことがあり(諸々あって最終的には挫折してしまいましたが。これについてはいつかここで書いてみようかな)、
      実際に日々現場にいらっしゃるあかっぱさんの記事を読んでいつも色々考えさせられたり新鮮な発見を得られたりします。
      こちらこそ、楽しみにしています。
      これからよろしくお願いします!