僕ら以外の人たちに僕らのことを語ってもらえる社会へ

住人

〈これまで”僕ら”は語りすぎた〉

多様性、ダイバーシティという言葉を日常で聞くようになって久しい。
自分がこの言葉を初めて聞いた時、町の人が全員スイマーな市から始まったのかなと思ったがどうやら違うようだ。
1960年代 アメリカを発端とした、黒人差別や女性差別の撤廃を求めた公民権運動の際に出てきた言葉らしい。
キング牧師とかの時代だ。

ネットで「多様性」と検索すれば解説サイトがいくつも出てくる。本屋や図書館でも少し探せば関連の書籍が見つかる。
そして、いろいろな人がいろいろな解釈をしている。

自分が一番しっくりくる説明は

「いろんな人がいます」

の一文に尽きる。

なんだ。説明にすらなってないじゃないか


この一文はあくまで“前提”。
後ろに「だから互いを尊重しましょう」とか「だから一人一人の価値観を変えていきましょう」とか「だから配慮をしましょう」とかがつく。
非営利団体の活動の目的になったり、多くの企業も方針として打ち出している。
ダイバーシティを名前につけた法人もあるようだ。

調べていくうちに、非営利団体と企業で解釈の違いがあることに気づいた。


人権と働き手

ダイバーシティの元の意味をたどれば、いろいろな人たちに人権を、という文脈になると思う。
あるサイトでは、
「ダイバーシティとは、直訳すると「多様性」となり、「幅広く性質の異なるものが存在すること」「相違点」という意味。組織でのダイバーシティとは「多様な人材を活かす戦略」。さまざまな違いを尊重して受け入れ、「違い」を積極的に活かすことにより、変化しつづけるビジネス環境や多様化する顧客ニーズに最も効果的に対応し、企業の優位性を創り上げること。」としている。https://worklifebalance.co.jp/diversity/

ビジネスの現場では、人材発掘の文句としてダイバーシティが使われているようだ。
むしろ、人権とかそういうものより「企業としてのダイバーシティ」のようなものが多く検索でヒットする。

厚生労働省が「職場におけるダイバーシティ推進事業について」のように率先して企業にもすすめているというのも大きな要因の1つかもしれない。

非営利営利関係なく、わざわざ多様性を打ち出さなければいけない理由は何だろうか。

私は、踏み絵みたいなものだと思っている。
そして、免罪符でもある。

人権に関するダイバーシティには、マイノリティという社会的少数派の存在がある。
性的・性自認、障がい、難病、不登校、引きこもり、宗教、人種、民族、ひとり親家庭、貧困家庭etc…など、

今まで生きやすさを享受してきた人たちの隣にいた人たち。
いわゆる「生きづらさ」「困難さ」のある(意識的ないし無意識的に)人たちのこと。

世に訴える彼ら彼女の言葉は切実だ。

「私たちのことを知ってほしい」「声を聴いてほしい」

酸素が薄い部屋で生かされず殺されず。無意識な無自覚な言葉に傷つけられながらも、笑ってごまかすことしかできなかった。
そんな苦しい思いをもうしたくない。これからの人たちにもしてほしくない。
当事者が語る文章やスピーチには、どれだけしんどい思いをしてきたか、どれだけ怖い思いをしてきたかが生々しくあらわされている。


読者や聴講者は、「ああ、そんな思いをしている人がいるとは知らなかった」とハッとさせられ、涙ぐむ。なかには言いようのない怒りを感じたり、自分も何かお手伝いができないかという思いを持つ人もいる。
マイノリティ当事者の言葉は、生きた物語としての側面がしっかりと出ていれば、マジョリティの感情を揺さぶることができる。

ただ、マイノリティはマジョリティがマイノリティのことを話すときに、厳しくなりがちだと感じている。
「私たちの何を知っているのか」と。
知ってほしい、というわりに肯定的な文脈以外で話すことに対して異様に厳しい。
「何もわかっていない」と。

そこに大きな違和感を覚える。

自分たちは知ろうとしているのだろうか。
認識しようとしているのだろうか。
他のマイノリティについて。
内部障がい者は、レズビアンを。
元不登校の経験者は、電動車いすで生活している人を。
線を引いていないだろうか。
知ろうとしているのだろうか。
自分たち以外の生きづらさを。

僕は知ろうとは思わなかった。

知識として、“そういった人たち”がいることは知っていた。
だけど、あくまで自分の世界の範囲外の生きづらさだと感じていた。
そしてそれは、マジョリティが僕たちに向けている視線となんら違いはなかった。


〈自分には関係ない〉

語り手が受け手に感じてほしくない感情を、他ならぬ語り手自身が持っていた。
巷を席巻している“多様性”は、それぞれの当事者の中に“偏見”“無関心”として封じ込められている。

当事者の語りを聞くと、読者や聴講者は「ああ、いい時間を過ごした」と満足するだろう。
でも数日後には日常の彼方におぼろげになってしまっているかもしれない。

<あなたはそうなのね、で終わらない「私はこう」>
自分が所属している難病患者の患者会を例にあげる。
希少疾患であればあるほど、似た経験をした「あるあるが共有できる」仲間を見つけるのは難しい。
あるあるエピソードは自分の経験を肯定的に受け入れられやすい。
今まで親や友人にもわかってもらえなかったフラストレーションを一気に消化できる。
聞き手側も「私だけじゃない感」を得られる。
“共感”でつながった瞬間だ。
「この人なら自分のことを“感覚的に”わかってくれる」
この“感覚的な”期待が、同質性の高いコミュニティの醍醐味なのかもしれない。

同質性の高い閉鎖的なコミュニティは、心地が良い。
今まで自分をさらけ出せる場所がなかった当事者らにしてみれば、安心できる場所だ。

例えば、病気であれば比較的軽い人もいれば、慢性的に非常に重い人もいる。
医療環境の関係で、治験や特殊な治療を受けられる人とそうでない人。
“良い”ドクターに出会えている人とそうでない人。
市町村、都道府県を異にしたときに受けられる支援制度に差がある場合。
昔と今で、患者の置かれている環境がかなり異なっている場合。
「いいよな、そっちは」
皮肉の一つや二つ言いたくなる。同じ病気なのに…と。
公平に医療を受けたい、少しでも良い環境で療養したい、と思うのはごく自然なことだ。その感情に間違いはないと思う。
だけど、実際の問題として、公平な医療を受けたり環境を変えることは簡単ではない。
それがわかっているから、何も言えない。
自分がそのコミュニティに期待していたものは、そもそもなかったのだ、と気づいてしまう。
気づきがズレに。ズレがひずみになる。

「同じ」だと思っていたものが実は「違った」
自分がコミュニティに深くかかわればかかわるほど感じてしまう。
だけど、ここを離れてしまえばまた自分を理解してくれるところが減ってしまう。自分が理解してあげなければならない人が孤立してしまう。
ここまでくると、その悩みはもはや元々の病気ではない。
一銭にもならない虚しい責任感だけがのしかかる。
次第にコミュニティから足が遠のく…。

これが自分の実体験だ。
今ではかかわりを最小限にしている。

--――現在、僕は複数のコミュニティにかかわっている。
すべてメンバーは違うし、やってることも違う。共通点もあまりない。
それぞれにそれぞれのものを持っているし、抱えている。
それぞれで学べるし、別のところで知ったものを違うところに活かすこともできる。
その時に使っている頭は、一つのコミュニティに落ち着いているときの頭ではない。
常に複数のコミュニティが動いている感じ。

段々、自分自身のマイノリティに対する経験を語る機会が減ってきた。
自分のことを話したい、という欲求がしぼんできた。

自分のマイノリティについて話すのがひどく億劫だった。
“さらみ”についてくる“短腸症候群”という肩書が嫌だった。
病気そのものが嫌いなわけではない。
自分をイメージする像に、“病気”というのが付随する状態そのものが嫌だった。
嫌だけど、離れられなかった。
だけど、自分のことを知りたいと言ってくれる人について語るのは、そこまで嫌ではなかった。
離れたいほど嫌だけど、自分の人生はこの病気とともにあったのだから。
思春期の親との関係のように。

当事者が当事者以外の人たちが肯定的な文脈以外で、マイノリティについて語ることを厳しく見るのは、自身が歩んできた過去を否定される感覚に陥るのからかもしれない。(これはマジョリティ、マイノリティに限らない話ではあるけど)

ある時気づいた。
自分は、経験をコンテンツにしていたのだ。
元も子もない言い方をすると、自分そのものを売っていた。
ただ、それは自身以外、世間に売るものがなかったときのことだ。

経験は過去であり、基盤であり、土壌だ。

その人個人の経験は確かに特異かもしれない。
でもそれを語り続けることは、自分の中の重力をただただ強めるだけ。
自分はこれなのだ、と確固たるものをより強固にするだけ。
そのたびに柔軟さを失っていく。
生きた物語が、語るための物語になっていく。
当事者が経験を生かす、というのは生きた物語を土壌にし、結果的に前を向くことだと思う。
進まなくても良いし、地を見下ろしても、空を仰ぎ見ても良い。
結果的に前を向いてれば良いのだと思う。

多様性社会を本当に実現するのならば、マジョリティだけではなく、マイノリティもその実現のために自らの“訴え”を更新していく必要がある。

僕らはこれまで語りすぎた。
だから、まだ語りすぎていない言葉を聞かないといけない。そして彼らについて語りたい。
僕ら以外の人たちに、自由に僕らのことを語ってもらってもらえる社会へしていくために。
まだまだ僕らにやれることはたくさんある。

sarami

生き意地の汚い人生を 送っています。

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