好きだ。
わたしにとって
小説という≪装置≫は
どんな存在なのか?
答えはきっと≪自己表現の唯一の手段≫に違いないはず。表現方法は数多にあるのに、なぜ小説を選んだのか。でも、突き詰めてみなくてもわかる、≪好き≫だからだ、書くことが、わたしは。松本人志にとってのお笑い、大谷翔平にとってのベースボール、藤井聡太にとっての将棋、マイケル・ジョーダンにとってのバスケットボール、そして村上春樹にとっての小説は、やっぱり各々がそれらを愛していたからでしょ。少なくとも始めた頃は。
わたしも小説を始めた19歳の時、恩師であるの故・浅沼先生に褒められたという思い出がある。大人になってから文学賞の最終選考に残った喜びの記憶も。もう一度、アノ感じを味わいたくて書いているんだ。でも、それは未熟かもしれない。上記の著名人たちはすでに≪好き≫という理由で楽しんでいない。社会貢献とか表現への深い追求とか、そういう意志を持って、戦っているはず。
冒頭、わたしにとっての小説とは≪唯一≫の自己表現と書いた。なのに朗読したり、戯曲を書いたりしている。それはアマチュア精神の丸出し。ただ目立ちたいだけ、≪認められたい≫という下衆な考え。そんな愚かな気持ちでやるなよ。命懸けでやっている人たちに対して失礼だ。小説を書くことに専念しろ、カッコつけるな。そんなことを書き綴っていたら、友人(だった男性)から「なかがわのアマチュアリズムが気に食わない。プロになる気がないなら書くな」と言われた。貴様に言われたくねえよと苛ついたが、確かにその通りかもね、あはは。≪好き≫は罪で悪だ。
テレビを見ていると、本業ではないのにタレントしている輩をたくさん見る。その度に、「ケッ」と彼ら/彼女らを蔑む自分がいる。彼ら/彼女らはいい意味でズル賢い。本業に注目してもらう為に、割り切って宣伝活動してるんだよね。その潔さに脱帽。同時に軽蔑。でも、わたしだって同じことしてる。小説を認めてほしいから、朗読をしたり戯曲を書いたりしているんだよね、浅はか。
話はさらに脱線して、50歳目前で、3年計画で長編小説を書くことを覚悟した。単純に勉強が足りない&人生経験することを疎かにしていると感じたから。そんな人間が小説を書いたって、たかが知れてると今さら痛感。ずっと前から、インプット期間を設けなければいけないことは感じていた。でも、アウトプットの書く時間を大幅に削って、知識を得るインプット作業をすることは勇気のいることだった。書き続けなければならないという強迫観念に襲われて、書きたくもないのに、≪書きたいから≫って見せかけで書いていた。≪良い作品が書きたい≫という、その気持ちのためのインプット期間。決しておやすみ期間じゃないヨ。今日も今日とて長編小説のための調べ物を怠らない。併せてどんなに過疎化しても、おどりばの原稿は書き続ける、≪卒業≫なんて言葉は、おじさんらしくないし。ライフワークの400字小説も当然、毎日更新し続ける。書くことを完全に止めてしまったらナイフはサビる。言葉できみを刺したい。
先月下旬にネオンホールの音楽イベントに出演させてもらって、絶叫朗読してきた。もうそれはまったくエンタメじゃなかった。前衛芸術でもなくて。やりたいことをやりたいようにぶっ放しただけ。だってほかの出演者もただただ自分らしさを打ち鳴らしていたんだもの。みんなちがってて、みんないい! そんなイベントでした。一度きりの人生だなんて言うかよ、ばかやろう。やりたいことをやる権利がわたしにはある。小説は≪装置≫じゃなくて数少ない≪権利≫や≪自由≫や≪尊厳≫なのかもしれないね。人間がどんな≪怪物≫なのか思い知るための手段、それが小説。50歳になるまでの残りの数年が勝負なのかも。言葉によって自分を奮い立たせ、自らを高みへ連れて行きたい。
結局、どんなに文字を費やそうと、小説を選んだ理由は≪好きだから≫という気持ちが大きいという結論かな。言葉の連なり、つまり小説という形が自分を救ってくれる。いつの日か、小説でも文学でもないものを書きたい。心象描写、情景描写、会話文、比喩表現、そして文法の壁もぶち壊して、奇天烈に全部デタラメにやらかしたい。壊すためにあるのが小説という≪装置≫じゃないのか。自分の存在をジャンルで括られてたまるか。そんな反抗精神を持ち続けたい。それをわからせたい、わたしたちに。
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